本音と建て前

 

 

 

本音と建て前、言ってみれば器用に嘘を使いこなす能力。

 

社会で生きていくためには備わっている便利がことが多く存在する。

 

いや、この能力がないと社会では生きにくい、といったほうが正確だろうか。

 

人間一人一人は話し合えば、理解し合えるかもしれないし、お互いを思いやることができるかもしれない。

 

しかい、社会というレベルでの人付き合いとなると話は別である。

 

何しろ人の数は膨大であるし、その人の数だけ思想や信念は存在するだろう。

 

 

よって、それらを全て理解するというだけでも、人生まるごとが数十、もしくは数百、あるいは数千。

 

そういった単位で必要となるだろう。

 

つまりは人間全ての気持ちや心情、思想、信念を理解することは不可能である。

 

人間理解できないことには配慮が足りなくなるし、理解できないことは好奇心がない限り、扱いはぞんざいになるし、場合によっては不快感を感じる。

 

では、どうするのか。

 

建て前である。

 

理解できないこと、不快であること、興味がないこと。

 

社会に存在するこれらに対して、一種の妥協策というが建て前である。

 

無理なものは無理という当たり前の考えを念頭にして、それでも社会と関わろうとするための策である。

 

よって建て前が悪いことだとは私は思わない。

 

しかし問題は、建て前というのは言ったら守らなくてはならない。

という点である。

 

嘘をつくなら墓場までもっていけ。

なんてことまで言うつもりはないが、少なくとも手のひら返しのような見せ方をしてしまうようならば、建て前などプラスにはならない、むしろマイナスである。

 

表向きは明るくていい人なのに、酒の席、もしくは当人が存在しないときには悪口のオンパレードなんていう人は、初めから建て前なんか使わない方がおそらく印象は良い。

 

人間は裏切りに対して敏感である。

 

建て前は人間関係に対する潤滑油であるが、人を軽々しく裏切ってしまうという大きなリスクがある。

 

そんなリスクを軽々しく背負うのであれば、時には本音で話し合ったほうが最終的には円満な人間関係を築ける可能性もある。

 

つまりは建て前を知らない人は失礼であるが、建て前しか知らない人もまた失礼である。

 

ということである。

 

人間関係ほど気を遣うものはないなぁと、つくづく感じさせられます。