桜ソングはもう飽きた。

 

 

桜=日本人

 

桜は日本人が大好きな花である。

 

4月になれば咲き誇り、桜の周りで宴会が行われ、皆新しい季節の始まりを満喫し、これからの人生に胸をはせる。

 

桜を見れば青春を思い出すという人もいるだろうし、これからの希望が湧いてくるという人もいるだろう。

 

場合によってはその人が大好きな桜の曲も流れるだろう。

 

そう、桜の曲である。

 

一体今まで何曲出ているのだろうか。同じような曲が。

桜っていうタイトルで出して飽きないのかなぁと思う。

 

私は毎年の桜の開花には喜ぶけれど、毎年出る桜ソングにはもう嫌気がさしている。

 

別に全ての桜ソングが嫌いな訳ではない。

では、どんな桜ソングが嫌なのか?

 

あんまり売れてないようなアーティストが、ありきたりな歌詞とメロディで「桜」という芸のないタイトルで出される桜ソングが嫌いなのである。

 

アーティスト性がないアーティスト

 

大物が出す桜ソングならば構わない。仮にアーティスト性というものが欠けていても問題ない。

 

なぜならば、大物はそれまで大物が培ってきた人生やイメージがあり、ファンはその大物の背景に好感を持っていることが多い。

 

ならば、その大物が出す桜にまつわる曲というだけでもやはりそれは価値があるのだ。

 

売れる人はさらに売れるということである。

 

その反面。新人もしくは無名のアーティストという存在が売れるためには、売れそうな曲を書くだけでは不十分である。

 

当然である。アーティストがアーティスト足り得るにはオリジナリティの要素が必須だからである。

 

なのに、そういった無名の新人が何の新鮮さもない、どこかにあるような歌詞とメロディを切り取って張り付けたようなどこにでもある曲に「桜」とタイトルを付けて発表するという根性が気に食わないのである。

 

そんな行為のどこにアーティスト性があるというのだろうか?

 

新人なんだから、無難がルートばっかり通ってどうするんだろう?

と思うのである。

 

しかもそういう曲を歌う人はどうにもどや顔である。不思議だ。

 

なんであれ、アーティストという職業に求められる創造性というものの逆を進んでいる、というのはどうにも頂けない。

 

こういう事をする人はどんな業界で仕事をしようがあまり上手くいくとは思えない。

 

どんな仕事であれ、求められている正解があり、そこに近づくように努力するから上手くいくのである。

 

どんなに速い球を投げることのできる野球選手だろうが、ストライクゾーンに入らなければ役立たずである。

 

野球に例えれば滑稽に見えるかもしれないが、実際こういった行動を取る人は社会にたくさんいるし、そういうことをする人は本気で上手くいかないことを不思議がっている。

 

自分ばかりが気になって仕方ないという人にありがちな現象である。

 

他人が何を考え、何を求めているのか、ということを考えることができれば物事が激変することは多い。