わからないかったら、すぐに人に聞け!でも時には聞かないで自分で考えろ!

 

質問と解決

 

困難なこと、深く考えても中々解決しないこと。

 

そんな難しい問題に突き当たることは多くの人が経験しているだろうし、そういう事柄が日常だと言う人もいるだろう。

 

そんな難題は、考えれば考えるほどに複雑さを増し、まるで幾重にも絡まりあった糸を丁寧に解いていくような、そんな神経のいる地道な作業だと感じられるだろう。

 

しかし、そんな事柄も自分から見れば難題であるが、賢い人、もしくは既に解答を持っている人にとっては易しい問題だと解釈されるだろう。

 

そしてその人達の協力を得て解答を知ることができれば、きっと今までは凄まじい程のどうやっても敵いそうにない難問も、赤子の手をひねるが如く、スラスラと理解、解答することができるようになるだろう。

 

どんな難問も、仕組みが分かってしまえば簡単だということはよくあることだ。

 

そして、現代社会には幾多の難問が襲い掛かってこようとも、集合知という名のインターネット様が存在しているので、大概の問題は周囲に協力を要請することで何とかなってしまう。

 

2時間掛かる難問が、ものの10分で理解し、解決することができるのならばそれはとんでもない速さのショートカットだろう。

 

しかし、それで本当に良いのか?と私は考えてしまった。

 

答えがあっても理解がなければ
 

理解もできて、解答も知ることができたのだから良いに決まってるだろう、と確かに私も思う。

 

学習において、問題において、重要なのは理解と記憶である。

 

ならば、やはり自分一人で深く考え悩むという行為は必要ないじゃないかと思うのだが、どうにも腑に落ちない。

 

人間には自分一人で深く悩んで考えたからこそ、得られる経験、能力、知恵があるのだと古臭いことをあんまり言いたくはない。

 

だがしかし、その私の古臭さを嫌う感性も今回ばかりは重い腰を上げて方向転換をしなくてはならない。

 

例え、自分一人で悩んで考えた結果、時間を浪費し、消耗したとしても、そこから得られるものはあるのではないだろうかと思うのだ。

 

具体的な確たる理論と理由を持って説明ができない私は古臭い精神論、根性論の考えなのだろう。

 

しかし、それを認識した上で語るのならば、問題の解を得るためのに、自分で方法を編み出す、実践する、失敗する、再考する、再挑戦する、という行動プロセスを磨くということは、学問に限らずどんな仕事でも必要かつ重要である。

 

また、自分一人で悩み苦しみ、我慢した上で目的を達成する、という訓練はこれもまた、一つの分野にだけ必要な要素ではなく、あらゆる分野に活用させる要素である。

 

さらには、自分で挑戦の繰り返しと、悩みと我慢を経た上で、導かれる解答は絶対に強く記憶に残る。

 

他人からすぐに理由と解答を頂戴して、終了させてしまうよりかは学習の密度は高いだろう。

 

これらの理由により、他人にすぐに解答を求めずに、自分一人で孤独に闘うという学習方法も重要なのではないだろうかと思う。

 

期限を守って腰を据える

 

勿論、仕事の納期や、試験期日が迫っている中で、長時間を使用して学習するなんて方法はもっての他である。

 

まずは期日を守って必要な成果物を提出するのが最優先事項である。

相手が欲しいのは熱意、情熱、努力の跡ではなく、成果物という結果である。

 

だが、自分一人で学習できる時間が十分にあるのだとしたら、こういった学習方法もまた大切ではないだろうかという主張である。

 

天才的な閃きは、十分な余暇と精神的な寛大さが必要だという。

 

そうなると、やはり一度じっくり腰を据え、一つの問題に対して真摯に自分一人で向き合うことも大きな価値があるだろう。