息苦しさと生真面目さ。

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息苦しさと生きる意味

 

何のために生きているのか分からなくなる時がある。

 

私にはやりたいことがない訳ではない。

しかし、生きててどうしても無意味だと感じてしまう時がある。

当然だ、やりたい事ができない期間が長過ぎれば誰だって、生きている意味が分からなくなるのは人間にとって何らおかしい心理ではない。

 

息苦しさと料理

 

一番底に美味しい部分があるからといって、それまでは吐き気を催すほどの不味い料理が延々と重なっている皿に手を付けて、完食しきる人は稀だろう。

 

食べ物は大切なのだが、自分が一生の内に食べられる量はそれ以上に大事かもしれない。

 

だからこそ人は今手につけている料理を手放してでも、次の料理を口に運ぶ。

 

その過程で、どの料理を食べても自分の理想の味に辿りつけなかったら、人間はどう考えるだろう。

 

沢山の料理を口に運んでいるから、お腹は満腹で苦しい。

今まで食べてきた料理は不味かったか、口に合わないものばかり、そういう経験積み重なれば人は、しばらく食べるのは辞めようと思うか、もう金輪際、「食べる」という行為は辞めよう、と考えるはずである。当然の帰結である。

 

息苦しさと自殺

 

それを現実に置き換えるのならば、鬱であり、自殺である。

 

だから、「どうして自殺しようとする?世の中には楽しいことがたくさんあるんだよ」と言われても、言われた本人は納得できないし、言われて怒りさえも感じることもあるのだ。

 

そりゃそうだ。今まで長い人生の中で食べてきた料理の中にこれこそはと思えるものが一つもなかった。

もしくは食べることが毎日が苦痛で仕方がないという人に対してのリアルというものは、やはり人生は苦である。と断定せざるを得なくなるだろう。

 

だから、自分がどうして生きているんだろうと思うことが多い、もしくは増えてきたというのならば、それはやはり毎日食べている、つまりは生きている人生があまりにも無味乾燥なのだろう。

場合によっては好きでもないゲテモノや舌が焦げるほどの激辛料理を食べさせられているようなものだろう。

 

息苦しさと息抜き

 

だからこそ、息抜きは大事だ。

 

生きるためには、とんでもない天才ではない限りはやりたくないことをやらざるを得ない機会というものが来るのかもしれない。

 

そんな時に、楽なことをするのは甘えだからと言って、自分が食べたくない物ばかりを、生きたくない人生ばかりを歩んでしまっては、無意識的に死を望むようになってしまっても、それは不自然なことではない。

 

息苦しさと自分に優しくすること

 

自殺する人は大概がものすごく真面目な人である。

真面目な人ほど、自分に厳しい。

 

当然、自分に厳しいという部分は、それはそれで大事なのだが、此の世は何事もバランスである。

 

いつも自分に厳しく、真面目に生きてきた人、そんな人がどうにも息苦しいと感じる日が来たのならば、それは思いっきり休めという自分の無意識の懸命なメッセージである。

 

自分の無意識的に発せられる心の声にもって耳を傾けよう。

 

自分をもっと大切にしよう。

 

自分がどうしたいのかを改めて考えよう。

 

息苦しい社会で自分を癒すのという行為は罪ではない。

自分に優しくすることは良いことである。