花粉の時の鼻水のような雑記。

 

花粉と冬

花粉が飛び始めた、まだ二月なのにである。

 

春の陽気とこれからの新年度という晴れ晴れしさを伴う季節だからこそ、花粉という邪悪な存在が空気をうろつき、我々の鼻孔を痛みつけたとしてもまだ許せるレベルなのである。

 

それなのに、まだ冬である。寒さで身を縮む凍結の冬である。

 

冬の厳しさに耐え、春の息吹を待つ季節でもあるのに、なんで春の嫌な部分だけを享受しなくてはならないのだろうか。

 

花粉の訪れで春の訪れを知るなんて、そんな苦痛を伴ったサインは嫌だ。

 

花粉が飛び回って喜ぶのは、マスク、甜茶、薬、または怪しい商品を販売して回る業者だけである。

そういう人達が大儲けする中で、どれだけの人が花粉で苦しんでいるのだろう。

こういった点にも日本の格差社会の一端が見て取れる。由々しき事態である。

 

花粉と人間の学習 

 

そもそも、人間の体もいい加減学習したらどうなのだろうか、花粉にいちいち反応するのはやめようと覚えたらどうなのだろうか。

 

これからは、まず間違いなく毎年訪れるイベントなのだ。

 

太陽に当たって体が元気を出すように、花粉を浴びたらやる気がでるように改良したらどうなのだろうか。

 

どうも人間の体はよくできているようで、かゆいところに手が届かない感じがある。

 

花粉と精神と受け取り方

 

とにもかくにも花粉である。

 

ある人にはどうでもないことなのに、ある人には死活問題となる花粉である。

こういう所にも人間の違いというものが出て面白い。

 

精神面でも人間はそうである。

少しからかわれただけなのに、それを苦にして家に引きこもってしまう人もいるし、それとは逆に自分は愛されていると確信する人もいる。

 

精神的な問題も実は自分の心掛けではなくて、花粉に反応するかしないかみたいな、自分ではコントロールできないアレルギー反応的な性質があるのかもしれない。

 

本当に、人間という生き物は自分では自分のことを知り尽くしていると考えているわりには、何も知らないし、自分では自分のことをコントロールできると考えていても、全く思い通りにいっていないことに気付かない。

 

なんであれ、起こってしまった結果に対していつまでもどうこう言っても仕方がないということなのだろう。

 

反省はしても気に病むな。ということであろう。

 

過去の失敗経験を思い出す時は未来への成功のために行うものなのだろう。

 

花粉と反応を科学する

 

自分のどのようなことに対して、どのような反応をしてしまうのか?

なぜ、そう反応してしまうのかという原因を綿密に知ることができれば、多少の方向転換が可能なのである。

それだけの科学技術は日本にももう十分備わっている。

 

ならば、花粉に対してもきっと何かしらの策はあるはずなのだ。

花粉が日本の春に蔓延するという結果はおそらくしばらくは変化しないだろう。

 

しかし、花粉に対する自分の反応というのは、どうにかすれば変えられるものではないだろうか。

 

とか調子の良いことを言っても、花粉の季節本番になれば、私もこんな悠長で強気なことは言っていられなくなるのかもしれない。

 

人間上手くいっている時は強気な発言ができるものである。

 

だから、上手くいっている時に、上手くいかなくなった時の予備やセーフティネットや対策を立てておくことは大事である。

 

調子の悪い時に事に当たっても遅いからである。

 

だったら、花粉の対策、準備も今の内なのだろう。