ひとりぼっちの無力さ、どうしようもない運命に立ち向かう意味はあるのだろうか?

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努力と運命

 

これが運命なのだろうか?

 

 

どれだけ思考、考察を巡らし、膨大な時間を費やし、あらゆる手を尽くした所で、なんでもないような、ほんの些細な事柄によってその目的は水泡に帰してしまう。

 

まるで初めからこうなることが決まっていたように。

 

運命とはもう既に決定されているものなのだろうか?

 

人生にとって努力とは無意味なのだろうか?

 

有機物、無機物、この世に存在する森羅万象は単なる世界の駒でしかないのだろうか?

 

果てしない努力の末に人が見るものは何なのだろうか?

 

こんな結末に人はどう納得すればいいのだろう?

 

どうしてもぶつかり合う個体と個体

 

わからない、しかし答えは必要だ。

 

だから人は行き違う。

初めは同じだったかもしれない。

しかしどうにもならない運命によって、人は別の道を歩まざるを得ない。

道のりは違い、信念も違う。しかし求めるものは同一である。

 

生まれも違う、育ちも違う、しかし本質的に求めるものが同一であるが故に、人は争う。お互いを理解できずに奪い合う。

 

どうしてこんなことになったのか?

 

人は争いの始まりに、途中に、終わりに、そんなことを思考する。

 

集団が原因か、金銭が原因か、欲が原因か、それとも生命という存在があらかじめ備えているものなのか?

 

そんな、考えても無駄なことでも人は考える。

 

結論は出ない、故に解決策も出ない。

それでも、もうこんなことはあってはならない、そう思い人は争わないことを決意する。

 

想像される未来が過去と大差がないことを予見しつつも、生命の善性を信じ目を瞑る。

 

些細な自分と強大な流れ

 

生命一個の力なんて些細である。人間一人もまだ同様である。

 

時代による、大きな流れは何が引き起こしたものなのかは定かではない。

そんな流れに人は流される。抗っても無力であるし、従った方が安易であるからである。

 

さて、これが運命なのだろう。

 

繰り返される努力と失意による諦観から人はそう思考する。

 

決してその生命が薄弱なのではない、時代の流れというのは膨大な生命の集合体である。

一個体の生命がどうにかなる理屈はない。

 

個体の力ではどうすることもできない。

 

それを知った個体はただただ無為に流されるままなのか?

 

ひとりに何ができるのか? 

 

違う。

 

違うのではないかと思考する人も、そこにはいた。

 

確かに大きな流れを変えることは限りなく不可能なのだろう。

 

確かな現実はそこに明確に存在している。

 

ならば一個の生命に、人に何ができるのか?

 

変わらない結果に対して何ができるのか?

 

赤か青のどちらかが点灯する結果であれば、一個がそれを変えることはできない。

 

赤が点灯するか、青が点灯するか、それが運命なのであれば、一個がそれを動かすことはできない。

 

そこだけに注目するのであれば、一つの生命は無力である。

 

結果は変わらずとも

 

ならば何を変えることができるのか?

 

結果は変更できずとも、過程は変更できる、ということである。

 

これもまた、確かな事実である。

 

微細な過程を変更できた所で、目の前にある結果は変わらないだろう。

 

一つ先の結果は勿論不動であるし、1000個先の結果も盤石であろう。

 

だが、どうだろうか?

 

10万個先はどうだろうか?

 

100万個先は何か違ってくるのではないだろうか。

 

一個の生命でも、大きな流れに抗う力がもっと大きければどうだろうか?

 

目眩がしそうな程の遠い先の結果ならば、何かが変わるのではないだろうか?

 

変わる結果は微細かもしれない。

 

あらゆる手を尽くしても、何もしなくても、結果はさほど変わらなかったかもしれない。

 

しかし、一個の生命が力を尽くし、微細でも何かを変えるという行為により、救われる周囲の生命も存在するだろし、自分自身にも納得ができるのではないだろうか。

 

それこそが一個の生命ができることであり、それが希望なのだろう。