物事には多面性があるから、今まで絶対的に正しいと思っていた事が真逆の意味を持つかもしれない。

 

 充電期間に意味はある!

 

やる気がない期間というのは別の観点から見ると、体力の充電という行為になるのだから、それはそれで意味があることなのだ。

 

そういう解釈もあるのだと、教わった。

 

別の解釈を得ることにより、今までは悪いことだと思っていたことが、良い意味に変わったりもする。

 

だから私は救われた、自分の人生が有意義なものだと思うことだできた、と思う方もそれで発生するということなのだ。

今まで良い事だと思っていた事が

 

ならば、逆もあり得るのだろうか?

 

自分が絶対に正しいと思うことを人生の全てを賭して行ってきたけれど、それは別の視点から見ると、とんでもなく迷惑で悪い行為だと知った場合である。

 

自分が絶対に正しいと思うことを人生を賭して行うという程の超が付くほどの真面目人間なのだから、その別の視点からの意見にもきっと真摯に受け止めることだろう。

 

自分が今まで行ってきたことが全くの悪行だった、なんて解釈はせずとも、自分は完全なる善性を備えた人物ではなく、善でも悪でもある存在なのだなと解釈するようになるのではないか?

 

その時、その人は多面性を持ち、多くの視点から物事を考えられる思慮深い人になるのだけれど、それと同時に自分という思考に理性にブレーキが装着されてしまう。

 

それも一つの行為に対して、アクセルとブレーキを同時に踏むような機能である。

 

一つに賭ける強さ

 

その新機能により、その人の行動力、正確は非常に中途半端なものなってしまい、周囲からの人望も損なってしまった。

 

周囲から、世間から自分という存在を眺められ時には、多面性を持つより、一つの分かりやすいキャラクターを持っている方が愛されやすい。

という法則から離れたため起こった現象である。

 

人間は一つのものを貫いたほうが、成功しやすい、そんな話を聞いたことがある。

考えてみれば当然なのかもしれない、毎日10時間練習している人、毎日1時間しか練習しない人とでは、どんな分野であろうとその差は出てしまうだろうから。

 

だから、物事に対する多面性というのはあまり考えない方がいい。

そういう結論も導きだせるのかもしれない。

 

確かに、その結論通りに実践することができたのならば、その人は大きな成果を出し、絶大な評価を得る確率は非常に高いだろう。

 

何事にも陰と陽がある

 

しかし現実的に考えてどうだろうか?

 

何年も、何十年も長い間一つの物事に傾倒するのならば、いずれは気づくのではないだろうか?

 

物事には多面性があるのだと。

自分で気づかなくてもこの情報社会である、いつかは周囲の人間がその人にそれを伝えることだろう。

 

その時にその人はやはり、多面性という課題に突き当たるのではないだろうか?

 

その物事の多面性、アクセルとブレーキが両方同時に起動してしまうようなその概念をどのように対処するのか。

 

そこをしっかりと思考し、はっきりとして回答を出すことだできる人間こそが、複数の観点から物事を観察し、尚且つ自分の進みたい方法に対してブレーキを外し、アクセルを全開にして進むことができる存在になるのではないだろうか?

 

既存の理屈を乗り越えた自分だけの哲学のようなものを編み出したものが強者足り得るのではないだろうか。

 

善も悪も知った上で行われる善は悪を知らない善よりも、きっと強く柔軟で信頼されるものだろう。