便乗商法もいいけど、結局大きく富を生むのは創造性溢れるオリジナル商品だ。

 

失敗したくないけど、成功したい 

 

便乗する人はきっと沢山いる。

だって、自分一人が目立った意見を言って、周囲の人から嫌われて生活がつまらなくなったはたまらないからだ。

 

だから、革新とか変化なんていう創造性溢れた行動を取るにしても便乗する人は多い。

 

誰かの真似をしていようが、自分がオリジナルだと思いたいし、新しいことをしていると思いたいのだ。

また、革新とか変化とかは他人の目を引くことができるから、商売でもよく使用される。

 

商売においては便乗はそれこそ頻発に活用される。

商売なんだから、手堅くお金は儲けたいけれど、それには皆の目を引かなくてはならない。そういう意味でも便乗というのは効果的なのだ。

 

便乗って卑怯ですか?それとも利口ですか?

 

さて、便乗という行為はいいことなのだろうか?

 

これも一つの側面なのである。

 

学習の基本はまずは真似るところから始まる。

学ぶという言葉は「真似ぶ」という意味合いから来ているらしい。

 

だから、他人のやることをとりあえず真似してみるということは学習において非常に意味があることなのである。

 

しかし便乗という言葉にはなぜか悪いイメージがあるように私は思う。

 

自分の意志などなく、その場の都合の良いほうに流されているような印象がある。

 

つまりは目的はないけれど、避けたい何かがあって仕方なく他人の真似をするという印象があるのだ。

 

これでは真似される他人もたまったものではない。

 

自分が幾多の努力を重ねた結果、ようやく完成させた創作物を他人に軽い気持ちで真似されてしまったので、やはり気分は悪いだろう。

 

パクられる、というのはどんな分野でもあまり気分のよいものではないのだろう。

 

容易にコピー可能な社会

 

しかしながら、この現代社会である。

もし自分が他人の何かをパクることは一切なくとも、他人から自分の何かをパクられるということは絶対に言い切ることができる人はそういまい。

 

情報が簡単にコピーできる時代である。

リスペクトとかインスパイアとかそういう表現が堂々と歩き回っている社会である。

 

だから、それと同様に他人から便乗されるという機会がゼロになるとは全く持って考え難い。

 

そんな時どのように考えればいいのか?

 

便乗されることは損なことだとは考えていないだろうか?

 

そんなことはないのである。

なぜなら、便乗されるということは他人の先を行っているということの何よりの証明になるからである。

つまりは便乗される人というのは、便乗する人よりも圧倒的に速い。

 

速さは強さであり、豊かさである。

 

この情報社会においては情報は一瞬で消費期限が到来してしまう代物もあるが、その一瞬で消費期限が切れる代物が大金を作り出すという可能性が十分にあるのである。

 

当然、いつまでも使用でき、利益を生む情報というのは存在するが、大金を情報においては何より速さが大事なのである。

 

だから、その点に関して他人の便乗をしている人は決定的に遅れていることになる。

 

情報社会において大切なのはスピード

 

よって、自分はよく他人から便乗されるなぁ、なんて思う人がいるならば、それは非常に有能な証であるし、今の生活からは想像もできない程の大富豪になることができる可能性に満ち満ちている。

 

今の時代に求められるのは行動力とスピードである、

(きっと今の時代だけではないのだろう、今までもこれからもこの要素はきっと富を生むのだ。)

 

 

他人に真似される人になろう、他人に便乗される人になろう。

 

いくら頑張っても他人が同じことをしてくるから疲れてしまうこともあるかもしれなが、気に病む必要はない。

 

自ら創り出す人と、いつまでも他人の背中を追いかける人の距離は例え短くとも、その両者の能力の差は莫大なものとなっているのである。