皆が出勤する中、私はそれを見つつ優雅にコーヒーを飲む。

スポンサーリンク

 

夢 、願望

 

皆が朝、出勤する。

 

そんな時に私は優雅にコーヒーでも飲みたい。

 

おしゃれなカフェかなんかで、ゆっくりとなんかパンに外国の肉を挟んだだけの物をカッコつけた感じの名前で販売されている奴なんかと一緒にコーヒーを飲みたい。

 

他人の不幸を見て、自分の幸せを感じるなんて最低だ!許さん!

 

えぇ、私もそう思います。そんなことをやられたら絶対にそんな奴を許してはおけません。

 

でもさ、他人に迷惑を掛けない範囲で、自分が他人を不幸にしていないのであれば、それも日常の些細な行動であれば、まぁいいんじゃないかな、と思ってしまう。

 

 

あぁ、自分の性格は捻じ曲がってしまったのだなぁと思う。

仕事のストレスかなぁ。そうだ仕事が悪いに決まっている!私が悪いんじゃあない!

 

幸せは相対評価

 

しかし、そんなこんなで考えてしまうのだ。

 

自分の幸せというのは、未だに相対的なものなのだなぁと。

 

そして、相対的な幸福なんてものは簡単に覆ってしまうから、そんな価値観を持ち続けている限りきっとその幸福に至るには厳しい努力が必要だし、やっとの思いで手に入れた幸福も長続きはしないだろう。

 

他人の不幸は蜜の味なんて格言もある通り、人は自分と他者を比べて幸せを感じるという性質は幾分か持ち合わせているらしい。

 

自分が今、群れの中でどれだけの地位に就いているかを知り、それによって幸不幸を決定するというのは生存戦略として正しかったのだろう。

 

そして、現代もその性質は人間に引き継がれている。

 

まぁ現代も自分が組織の中でどれだけのポジションに就いているかによって、収入は大きく異なってくるのだから、その性質が存在することは生存することにおいての役割は十分に果たしているのだけれど。

 

だがしかし、その他者との比較による幸福感だけではきっと人間は自分を生存させるために心身を摩耗させてしまい、生きたように死んでしまうだろう。

 

絶対評価の幸福にシフトチェンジしたい

 

自分の幸せは自分で決めるべきなのだ。

 

自分の幸せが他人の不幸であっては、社会全体を悪いものに変えてしまうだろうし、結局は自分自身をもいずれは不幸にしてしまうだろう。

 

だから、自分一人がやって幸せだと思う「行動」を思考、模索しなくてはならない。

 

決して、「状況」による幸せだけを頼りにしてはならない。

それが、自分は他者に比べてどうか、というレベルの幸せである。

(ある程度幸せなのは確かではある、しかしこれ一つに依存してしまうとロクなことが起こらないということである)

 

自分がどんな行動をしている時が幸せなのか?

 

それを知ることができれば、幸福はいつでも引き起こすことができるようになる。

 

自分は何々をやっていれば幸せ!という奴である。

 

そういう行動を持っている人は強い。

 

他人の行動、評価に振り回されなくなるからだ。

 

他人に振り回されない人というのは、自立している人だから勝手に周囲の人間が付いてくるようになるだろう。

 

そうなると結局の所、その人の評価というものは高いものになる。

 

世の中というのは不思議なものだと本当に思う。