暇っていう言葉に嫌悪感がある人は面倒くさい。

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いま、ひま?

 

暇という言葉を端的に説明するのは非常に難しいと私は考える。

単純に何もすることがない時間の事を暇と定義する人いれば、誰かから何かを強制されていない時間を暇という人もいる。

もっと突き詰めるのならば、自分の心が最も自然体でいられる時間が暇だと言う人もい。

 

だから、今何してたの?

という質問をした時の、「今、暇しているよ!」という回答は一概に善悪の判断ができないと思っている。

 

今の時間にやらなければいけない事はないにも関わらず、怠惰でつまらない時間を延々と過ごしている人の暇であれば、まぁそれはあんまり良い意味の暇ではないのだろう。

 

しかし、暇そのものを楽しむという人も存在するのである。

自分が所有している限られた自由な時間を存分に堪能している人だって、何をしているかを問われれば、暇をしているという回答になることもあるのである。

 

暇という言葉そのものには善悪はないのである。

 

結局、暇というのは心、もしくは体が開放、解放されている状態の事を指す言葉なのだろうと私は思う。

 

辞書にて調査を行うのならば、きっと違う回答を提出されるだろうが、辞書通りの定義で日常生活の全てがまかなえるかというと、そんなことはないので世の中は結構大変である。

 スケジュール帳がいっぱいなら、それで幸福なのか? 

 

世の中には、忙しいということが自分のアイデンティティであるような人がいる。

そんな人は暇という言葉を毛嫌いしているし、暇だと口に出すような人がいるならば、鼻から見下してかかるだろう。

 

要は、何から何まで頭からつま先まで、何かで満たされていなければ気が済まないという人である。

 

そういう考えは、私はあんまり賛同できない。

とはいえ、私も体力がある限りはずっと活動をしていたいタイプの人間である。

ただ、あちこちに手を出して、色々な経験をしたいと思うのだが、精神的な面では気楽でいたいのである。

 

 

だから、暇は好きだし、ずっと活動しているのも好きなのである。

この2つは両立する要素だと思う。

 

追われるのではなく、追い求めたい、だからこそ暇が大切なんだ

 

何かに追われるように、動き続けるのが「忙しい」であり、それはイヤなのである。

何かを追い求めるように生きていきたいのである。

 

やっていることは似ているけれども、全然違うのである。

 

人間は意識一つ、心の持ち方次第で物事が逆転してしまうというのはこういうことなのだろう。

 

だから、今日一日何も予定がなくとも、仮に結局に何もやらなかったとしても精神は充実するということは全然ありうるのである。

 

そういう気持ちになれる人は、だいたいどんなことにでも幸せを見出すことができるだろう。

 

だって、何もないことが幸せだと感じることができるのだから、何かが少しでもあったらもっと幸せになるに決まっている。

 

そういう意味では、自分のスケジュールが何かできっちりと隙なく埋まっていなければ、気が済まないという人は思い切って一週間くらい何もしないでみたらいいのではないだろうか?

 

忙しいことに殺されていた人ならば、そこで何かのスイッチが切り替わるのではないだろうか?

 

現状が全く上手くいっていないのならば、もう現在やっていることを裏返しにしてみればいいのかもしれない。

 

本当に単純な方法だが、案外正解なんてものは単純であったりする。