供給過多こそが成長への道のり

 

食事も一種の戦いだ

 

ご飯を食べるとしよう。

 

お腹いっぱい食べるとしよう。

 

好きな物を好きに想像して頂いて構わない。

ハンバーグだろうが、たらこスパゲッティだろうが、耳の所がソーセージになってるピザとか、あとグラタンが食べたい。

 

そんな自分が大好物を揃えて好きなだけお腹一杯になるまで食べるとしよう。

 

食べる、食べる、美味しく食べる。

幸せな気分になる。

 

しかし食べ続けていくと現実に直面する。

 

お腹いっぱい。

想像してたより全然食べられない。

気持ち悪い。

 

人間の想像と現実には非常に隔たりがあるものなので、想像は「これとこれと、これ、あとアレも食べよう!」なんていう具合に宇宙の果てまで膨らんでいくのだが、いざ食べ始めると実際に食すことができるのは、その半分にも満たない。

これが現実である。

 

そして、無理に想像した分量を食べようとしても、途中からはお腹いっぱいだからあんまり美味しくない。

というか苦しい。

 

でも、それでも無理やり頑張れば食べられないことはない。

例えば、水で流し込むとか、少し時間を置くとか、トッピングを変えてみるとか。

そんな一つの工夫で限界だったお腹が少しずつ容量を増大させていく。

 

少しずつの努力でも、案外やる気と工夫があれば完食することができる。

 

完食した瞬間は、達成感はあるかもしれないが、限界を超えた満腹感は非常に体を大変に圧迫する。端的に言えば気持ち悪くなる。

 

吐き出したくなる。

もう二度と同じことはしない、と誓うことだろう。

 

だが、次の日も同じことをする。

 

メニューは変更されていても良い、だが分量は昨日と同様にして、またフードファイトを始める。

 

きっと、その日も苦しいだろう。

食事の楽しさなんかわからないだろう。

食にありつくことのできない人がいるのに、どうして私はこんなことをしているのだろうと、思うこともあるだろう。

 

それでも、続ける。

 

そのフードファイト生活を三ヶ月続けるとしよう。

 

そうすると、その人には変化が起こっている。

 

三ヶ月後のその人は、初日に食した分量を軽々と食べることができるようになっているし、初日の食事量よりも遥かに多い分量に挑戦できるようになっている。

 

いや、そんなことは実際に食べてもらわなくても確認できることだろう。

 

その人の体は大変ふくよかな姿へと変貌していたのだから。

 

膨大な努力量がその人を膨らませたのである。

 

以上。例え話終わり。

 

成長ってのは供給過多から生ずる

 

何が言いたかったのか?

 

食事を努力に置き換えてくれ!

ということである。

 

そうすると、人がどうすれば変化、成長することができるのかがわかるし、案外人間というのは知らず知らずの内にそういうことをやっているというのも驚きである。

 

想像と現実はぜんぜん違う。

最初は上手くいかないことの方が多い。

最初に抱いていた理想は現実に打ち壊され、辛くて苦しい。

その現状を打破するために、努力と工夫を行う。

毎日毎日に大した変化は起こらない。

しかし、継続することにより変化は起こる。

最初は全くできなかったことが軽々とできるようになっているし、遥か上を目指すことができるようになっている。

人間やったことに対する痕跡は残るようになっているので、外見にはっきりと現れる。

 

そして、ここでとても重要になるのが、「供給過多」の状態に自分の身を置いている、ということだ。

 

簡単にできることをやっていても、少しずつしか変わらない。

でも、今の自分ではちょっと多いのではないか、というラインに挑戦することにより大きく変わることができる。

 

だが、この見極めは慎重に行うべきである。

特に、肉体的負荷を大きくかける訓練に関しては下手すると死んでしまうから気をつけよう。

 

そんなことを言っても、やはり今の自分にとっての、「ちょうどいい供給過多」を見極めることは重要である。

 

今日一日で、どうすれば最大限成長できるかを思考し、実践する。

 

成長しない人間はいない。

だが、それぞれ成長スピードは千差万別である。

そして、その違いこそが成功するか否かを分ける境界線なのである。