他人の評価が気になって不安になる人は、ナルシストになって自信を身につけよう。

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「他人から見た自分」を自分は見る事ができない 

 

他人から見た自分の印象というのは、自分で思っているものと随分違いがあるようだ。

 

確かに自分という存在を見つめる時には、自分がそうありたいと思うような理想を重ねてしまうかもしれないし、その逆をやってしまうかもしれない。

 

自分を見る存在が自分自身であるのだから、当然正しく観察することはできないのである。

 

鏡などを使用した所で無駄な話である。

 

都合の悪い部分はどうせ見えない。

 

だから、相手が自分のことをどう思っているのか、ということについては当たり前の話だが、相手に委ねるしかないのだ。

 

相手の思考と相手の発言は食い違う事がある

 

しかし、この時にも問題は発生する。

 

相手の言っていることが本当の事であるかを判断することができない。

 

これが非常に厄介である。

 

もし相手は、自分のことをとても良い人だと思っているとしても、その相手がツンデレだったとしたら、「世紀末のクズ」という評価を得てしまうかもしれないのである。

 

その時の相手の評価をそのまま真摯に受け止めてしまうと、その人の人格は崩壊してしまうだろう。

 

世紀末のクズという称号を与えられるだけでも、甚大な被害を被るというのに、さらに大変な所は、その評価はある特定の一人の評価なのであって、また別の人からの評価はまた別だ、という所に問題がある。

 

ある人からは世紀末のクズ、さらにある人からはろくでなしのブス。

 

そんな辛い評価を複数の人から受けてしまったらどうなるだろうか?

例え、それが心の底では冗談だと考えていたとしても、それはそれで結構キツイ。

 

他人の評価を鵜呑みにすると絶命する

 

仮に嫌われていないとしても、見下されていることは確かだからである。

 

だが、これが、これこそが自分に対する周囲からの真の評価なのだ!

と思考してしまったとしたら、どうなるであろうか。

 

その人の人格は崩壊するだろう。

 

一人目ならば、まだ半死半生程度で済むかもしれないが、二人目の評価を受けてその場に立っていることができる人間はこの世にはいないだろう。

 

もし仮に立っていることができる人がいるとしたらならば、その人の魂はもう天国へと旅立たれているだろう。

 

そして、まだ生命を保っている人ならば床に倒れこんで、人間の体から出る物は全て噴出させて気絶していることだろう。

 

あぁ、また変な評価が付く。

やんわりとした言い方でも「噴水」とか言われるのだろう。

 

さて、自分というものを自分自身で理解することはできないが、だからと言って他人の評価を鵜呑みにしていても仕方がない、という話である。

 

そして、現段階では他人の言葉の真偽を容易に知りうる手段はない。

 

ナルシストになれば解決する

 

ならば、どうすればいいのか?

 

真偽不明の他人の評価に振り回される人生は御免被りたい。

 

対策は何か?

 

「理想の自分のイメージを追求すること」

 

これしか対処法はないのではないだろうか?

 

所詮は、自分の言うことも他人の言うことも絶対的な真実だと言い切れるものなどないし、善悪の基準なんてものも曖昧である。

 

そこを思考しても無駄なのである。

 

だったら、自分が理想とするイメージを徹底的に追求して、そのイメージに浸って生きる人生は中々楽しいものなのではないだろうか?

 

そんなことしたら、キモいと思われるじゃないか!

 

と思われる方もいるかもしれない。

 

でも違う。それは違う。

 

自分はキモいと思われてしまうのではないか?

と常に不安を抱き、クヨクヨグズグズしている人がキモイのである。

 

変態でも堂々としてる人間は、ある分野では神と称されたりする。

 

この世には、絶対的な正しさというものは存在しない。

 

だから、自分が正しいと思うことを追求するのが最善である。