他人と理解し合えないで苦しんでいる人はちょっと傲慢かもしれない。

 

ウチはウチ、ヨソはヨソ。

  

誰かが心から大切にするものを私にはわからなかったりする。

 

ある人はそれのために命を賭けるけれども、ある人はそれをゴミのように捨てたりする。

 

人間の価値観は非常に多種多様である。

 

事実そのものには何の問題もない。

「みんな違っていみんないいよね」という話なだけである。

どこかの国の道徳的教科書に掲載されてPTAのお涙を頂戴すれば良いのである。

 

私が嫌いな何かを他の人は愛しているっていうこと

 

しかし、現実問題は多少違ってくる。

ここは残念ながらおとぎ話の世界ではない。

 

よって、みんなが違うということは違うことによるメリットだけでなく、デメリットも享受しなくてはならない。

 

どうにもこの世においては「いいとこ取り」というのは不可能ではないにせよ、非常に難しい問題となっている。

 

みんなの思考が違う、趣味が違う、だから価値観も違う。

 

価値観が違うということは、他人が本気で心の底から大切にするものが自分には理解できなかったりする訳だ。

 

自分にはゴミにしか感じられないような物に対してはゴミのような扱いしかしないだろう。

そしてそのゴミを心から愛している人が見たのならば、ゴミ扱いする人間を畜生以下だと把握するだろう。

 

みんな大切な物を守るために戦っている

 

その結末としてはどうなるだろうか?

 

聞くまでもない、争いが起こるに決まっている。

 

この場合どちらが加害者でどちらが被害者なのだろうか?

 

両者ともが被害者だと感じるだろうし、どちらも自己防衛のために加害者へと変貌するだろう。

 

何が悪いという訳でもない、しかし不思議と悪は発生してしまう。

厳密に表現するならば、悪そのものが物体としてどこかに発生する訳ではなく、見る人が概念として作り上げてしまうのである。

 

そして悪が発生する根本原因は愛する何かが存在するためである。

愛するものがあり、それを強く大切だと思うが故にそれを害するものは全て悪だと断定してしまう。

 

人類の中で最も尊いとされる概念こそが最も醜い何かを引き起こしてしまっている現実がここにはある。

 

きっとこの現象は人間が存在する限りなくなることはないだろう。

愛だとか、感情だとか、生きがいだとか、好み。

そういった物が存在する限りはなくならないだろう。

 

いまそこにあるものを、あるがままに観察する

 

こんな事態に対して、しかし英知を持った人間が黙っている訳でもいかない。

 

何のための脳みそなのだろうか?

 

自分自身を苦しめるために発達させた能力ではないはずである。

 

ならば解決するためにはどうすれば良いのだろうか?

と、自分自身に問いかけてみた。

 

で、結局出た答えは、

「あるがままで物事を見る」

という心の動きが問題を多少は解消するのでは、と結論付けた。

 

古来の人間は自然現象に対して理由を付けた。

雨が降るのは雨の神様が活動しているからである。

山が噴火するのは山の神様が怒っているのである。

津波が起こるのは海の神様が怒っているからである。

 

と現象そのものに対して何らかの存在を定義して発生の理由を人間が納得できるカタチに変換した。

 

人は事実に根拠や理由を求めたがる

 

人間はとにかく納得したいのである。

だから理由を求める、憤る。

神様相手なら、懇願と恐怖と敬意によって問題は収束するが、人間同士では具合が違ってくる。

その先には討論と相互の無理解と怒りと争いが待っている。

 

だから止めてしまうのである。

あるがままで物事を見るのである。

 

それはそういうものだと認識して思考を終了させるのである。

 

雨は雨だし、人は人である。

私は私だし、あなたはあなたなのである。

 

そうやって、下手に自分の意思や理由を介入させることを辞めると、自然と辛い感情も少なくなってくる。

 

雨が降ったら傘をさす。

 

それくらいの認識と反応で十分なのである。

「あぁ、今日は雨か、面倒だなぁ、仕方がない傘をさして出かけるか!」

このくらいの思考で十分なのである。

 

それで十分なのに、

「あぁ、雨が降ってる、私がこれから出かけるというのになんて気が利かないんだ!人が嫌がることを平気でするなんて最低だ!どうしてこんなことをするのだろうか、私にはさっぱり理解できない。私だったら絶対にこんなことはしないのに。」

こう思考してしまうから余計に苦しい感情になってしまうのである。

 

人も一種の自然現象

 

日常の自然現象には前者のように思考行動できる人は多いのに、対人間となると断然後者の振る舞いをとる人間が増える。

 

不思議なものだが、人間に対しては人間はわがままになってしまうのである。

言葉が通じるから自分の意思も完全に伝わって理解してくれると錯覚してしまうのである。

 

「あるがままを認識し、ただ冷静に対処する」

これでいいのだと思う。

 

「うちはうち、よそはよそ」である。

やはり母は偉大である。