私には敗北が足りない。負ける事に不安や恐怖を抱くからパフォーマンスが落ちるのである。

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ギリギリアウトみたいな場合もある

 

今日、私は負けました。

残念ながら、ダメでした。

ギリギリで落ちました。

 

1点足りないとか、本当にあるんだね。

今までピッタリで合格とか、ギリギリで合格とかはあったから「私はラッキーだなぁ」なんて思って高をくくっていたのだが、受かればいいなぁと思っていた物に限って落ちた。

 

至極残念である。

 

あの、落ちた時の気分というのは年をとってもさほど変わらない。

心臓がバクバクして、血が引いていくのがわかり、後悔の念が押し寄せる。

 

人類共通の生理現象であろう。

絶望である。

 

私もその生理現象を、本当に久しぶりに体験して、ズルズルと嫌な気分を引きずっていた。

 

いや、嘘だ。過去形ではない。

今現在も落ち込んでいるのだから。

まぁ、仕方ないことだよな!という気分が大半を占めてきているけれど、まだ心の裏にマイナスの感情がびっしりとこびりついている。

 

見えない汚れは増々見たくない。

だから今日の私はこの心の汚れを抱えたまま過ごし、身体も心も元気が取り戻してきた時に、勢いを付けて汚れの掃除をするつもりである。

 

だから掃除は後回しである。

明日できることは明日やればいい!

 

そんな事を言っているから落ちるのである。間抜けめ!

 

と言った所で、できないことはできないから、私はできる事をやることにした。

 

反省と後悔の感情を情報として書き残しておくこと

 

何ができるのか?

 

この経験によって得られる教訓は何か。

反省点は何か。

そんなことをテーマに文章を綴る。

 

そんな程度である。

だが、多少の意味があるのではないかと思う。

心の動きが激しい内に書き留めておく内容は、心の痛みが引いてから考える内容とはあまりにも違う物になるだろうし、それはきっと今後約に立つ。

 

そして、私は悔しさから、やりきれなさから、それを書くモチベーションは高まっている。

 

文章に現す。

これは誰にも迷惑を掛けず、ストレスを発散させ、自分の将来に繋がり、もしかしたら周囲の人間のためになるかもしれない有用な手段なのかもしれない。

 

 

私は敗北が足りない

言い換えるなら、挑戦した数があまりにも少ない。

試験の申込だけして、受験しない。

無料で受けることのできる講座を受けない。

 

そんな事を繰り返し行っていた。

どうして、そんな事をしていたのか?

そう自分に問いかけるのならば、

「向上意欲はあるが、プライドが傷つくのが嫌だった」

という内容である。

 

敗北を知らないが故に、心が強くならなかった。

敗北を知らないが故rに、自分の欠点がわからなかった。

敗北を知らないが故に、成長できなかった。

 

これが私の恥ずべき点であり、反省改善する点である。

人間という生き物は環境に流される生き物なので、実際にその場所まで到達することができれば、懸命に試験に取り組んだりするものなのだ。

 

そして、自分が頑張ったものに対しては成功して欲しいと思うし、もし失敗していたら、今後こそは上手くやってやろうと思うものである。

 

だから、さらに挑戦できるのである。

だから、失敗がそんなに怖くなくなるのである。

だから、次第に能力と成功率は高まっていくのである。

 

しかし、何のアクションも起こらないと、そんな連鎖反応が全く起こらない。

下手に自分のプライドを守ることで人生を消費してしまう。

そしてそれを心の底では本人もつまらないことを自覚している。

 

そういう観点において、敗北は非常に大切なエッセンスなのだ。

 

その味は時として苦いが、時として美味になる。

 

成功する人間の影にはどれだけ失敗している人間がいるのだろうか?

そんなことを思考して挑戦する事に億劫になる。

 

しかし、成功している人、その人自身の影にも尋常ではない数の失敗が積み重なっているのである。

その影をよく見ないで成功だけに焦がれるのは筋違いである。

 

勝つためには負ける事も必要だ

 

私は成功が欲しい。

でも、そのために必要なのは沢山の失敗なのだろう。

その現実を認識して行動しなくてはならない。

 

もっと失敗しよう!

とは言わない。

 

でももっと舞台に立とう。

実戦を繰り返そう!

その過程で得られる経験値はひたすら机の上で勉強しているだけでは得られない事がいくらでもある。