孤独を愛する人ってのは、普通の人と比べてコミュニケーションの胃袋が小さい人だっていう理解が大切だと思う。

自由と社交性のシーソーゲーム

 

誰かと一緒にいると安心する。
それは人間ならば、きっと誰にでも標準装備されている機能だろう。

 

漫画だろうが、ドラマだろうが、小説だろうが、孤独は多くの状況でとても悪い事として扱われる。

 

何年間も人とか関わることがなかったこんな私がこれほどまでに素晴らしい仲間と巡り会えたなんて、感激!
みたいなストーリーは枚挙にいとまがない。

 

孤独は誰もが感じることであるし、大体の人間はやはり孤独を恐れる。

やれ友達が欲しいだの、やれ恋人が欲しいだの、そんな悩みがいつの時代も付きないのはそういう訳である。

 

そんな中でも少数派の人間というのは存在する。
孤独を好む人もいる。

 

集団行動が嫌いな人だっている

 

当然その人だって、集団で行動することの絶大なメリットと、組織によって積み上げてきた数々の偉業を知らないなんてことではない。

 

その利点を熟知しているし、それを存分に利用させてもらっているけれど、誰かと一緒にいることによって、安心感や幸福を感じたりはしないという人だ。
そういう人は安心感や幸福とは逆の感情を引き起こす場合だってある。

 

人と一緒にいると不安で不幸な人生を送ってしまう人だっている。

これは当然ながら、性質の問題であり、それはそれでメリットがあるのだ。

 

たくさんの要素があるから、たくさんの問題が発生する 

 

人間の最大の不幸は人間関係から発生すると言われている。
孤独ならばそんな不幸は存在しない。

 

他人と一緒にいると、ただ何もせず漫然と過ごすことはできないので、余計な出費がかかる。
孤独ならば、多少の金額でも今の時代、十分に遊び呆けることができる。

 

孤独の器、コミュニケーションの器 

 

こんな主張を聞いて、孤独大嫌い派の人達は孤独大好きの人達に対して、気持ちの悪い感情を覚えてしまうかもしれない。


ただ少数派について弁解するならば、その人達の皆が皆、一生誰とも関わらずに生きていたと思っている訳ではない。

単純に「他人と接する事」の欲望の容量が他人に比べて異常に小さいというだけなのだ。

 

だから、一週間誰とも話すことがなければ気が参ってしまうのである。
一週間に一度くらい、ほんの30分くらいは誰かと日常の些細な出来事について歓談したいのである。

 

多くの人はきっとこれでは満足できないのだろう。

だから、毎日の些細な会話では飽きたらず飲み会なんかを開催するのだろう。

 

しかし、孤独を大好きな人間からするならば、それはもうお腹一杯なのである。

 

朝の天気の話だけでもう一週間は行きていけるだけの容量を満たしているのである。
それなのに、飲み会なんていう、長時間、それもディープな内容の会話を行わなくてはならない。

 

それは例えるならば、毎日の食事はご飯一杯と納豆だけで十分な人間に、ご飯十杯にステーキ十枚にビール五杯くらいの食事を取らせるようなものだ。

 

気が参るに決まっている。
余計に孤独を愛するようになる。

 

そりゃそうだろう。
他人からの好意でもらったものを、気持ちが悪くなり吐き出してしまったら、今後一切その人からは何かを頂戴しようとは思わないはずだ。

 

そんな人が世の中には存在するという事を是非とも理解して欲しい。
そんな性質を自ら理解しながらも、果敢に世の中に順応しようとしている人間はたくさんいる。

 

人は外見こそは似通っているが、中身の部分に関しては全く別の生き物だと思った方が良いだろう。