イロトカタ

純然たるイロトカタです


社会で生きることに罪悪感を感じる人へ

 

正義と罪は手のひらを返す 

学校では習う。
「人には優しくしましょう!」
「皆を信じましょう!」

 

社会では学ぶ。
「利益を追求しましょう!」
「人は疑いましょう!」

 

さて、全くの反対の現実を社会では味わうことになる。

 

そして少年時代に培ってきた道徳的観念は崩壊し、社会的、大人的な思考に染まっていく。

 

こんな考えに染まっていく自分に罪悪感を感じ、「これは生きてくために仕方のないことなんだ」と自分に言い訳しながら生きていく。

 

どうにも心に歪みを抱えながら大人が生きている理由は、「少年の時の道徳的観念」と「有能な大人になるための哲学」が真逆のものであることに起因する。

なんとも非効率だなぁ。
と思う。

 

だって、どっちかをなくして、最初からどちらか一方の考え方を正義として行きていけるのならば、その人は心に歪みを抱えてい生きることはなかったはずだ。

 

人は自分にとって利益になる事を正義とする

 

じゃあ、どうして子供の頃は、実際にはありもしない世界での成功するための思考を身につけさせるのか?


結論としては、世界が狭すぎると思考が極論化してくるからである。

 

学校に生きる人は社会を知らない。

社会に生きる人は学校には通わない。

だから、それぞれがそれぞれの世界で最適に生きるための思考を確立していく。

 

学校の先生が「人に優しく」と主張するのは、別に騙してそういっている訳ではないはずである。

 

先生の体験としては子供には優しくした方が自分の利益に繋がっている経験が多いから、そう思っているのである。

 

社会に生きる人間が、「人を信用するな!」と考えるのは、人を信じてて痛い目に遭ったから。本気でそう思っているのである。

 

人の正義は多面体


この事実から学ぶべきことは、思考は環境に適用する形で変化していく。

という単純な話である。

 

だから、少年時代の正義と社会正確での正義が拮抗したからといって、自分を責める必要は何一つない。

 

ただ環境に適応しているだけである。
ただ住む世界が変わっただけである。

その理解さえあれば、少しは気が楽になるのではないだろうか。

 

正義は世界の数だけ存在する。

 

限られた世界に住んでいる人も、複数の世界をまたがって生活している人もいる。

 

そして、皆その世界に順応しようとして思考を変化させているのだから、意見が違うことは当然のことである。

 

その時相手を責めるのも、自分を責めるのも、筋違いである。

国によって、文化や風習や正義感が違うのと同様である。

 

人それぞれで住む世界は違うのである。

 

だから、社会で生きることに罪を感じる必要はない。

 

とはいえども、社会を浅い考えで理解した気になって、自分本位な思考で迷惑をかけて生きれば、それはそれで大変なことになるのは当然である。

 

あなたが味わった社会の罪は社会の一側面であることも同時に理解しなくてはならない。