過ちを認める事で自分を悪い人だと思ってしまう人がいるけど、それは違う。

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失敗しない人間はいない!よって人間の強さとは「立ち上がれるかどうか」にある

人間は失敗する。

基本的にそれは仕方のない事だ。
失敗が一切ない人間なんて人間ではないと想ってしまう。

というかそういう人間を機械的と表現するくらいだから、「人間らしさ」は曖昧だったり、適当という部分を多分に含むのだろう。


決める所さえちゃんと決めれば良いのだろうと私は考えている。


だが、大切な何かをする時に、どうしても成功してやる!なんて思っても失敗してしまう事だってある。

その出来事そのものには確かにしっかりと反省するべきなのである。


場合によっては皆の前で謝らなくてはならないかもしれないし、恥を晒さなくてはならないかもしれない。


それを糧に人間は成長する事もあるのだから、適度であれば良いことなのだろう。


失敗を糧に成長する人間は沢山いるのだけれど、そんな中でも失敗して精神的に落ち込み、それによってパフォーマンスもされに低下して、また失敗してしまうという悪循環が起こってしまうタイプがいる。



こんなタイプは結構珍しくはない。
なぜこんな事が起こるのだろうか?


失敗を糧に成長してきた人達はきっと首を傾げるに違いない。


しかし、つまずいた時に大きく成長できる人と、逆に落ち込んでしまう人との間には考え方において全くの違いがあるのだ。


では、その違いとは何なのだろうか?

落ち込む人間は「自分が悪いんだ!」で思考停止


当然、何かで失敗した時に、確かに自分が悪いのであれば、「自分が悪かった」と素直に認める事は悪い事ではない。

いや、というか良い事なのだろう。
素直に自分のせいだった!認められる人間は強い。


明らかに自分が悪いのに、原因と向き合わないで逃げ続けて周囲に迷惑を掛ける人間だっている。


そんな自分自身の過ちを認める事のできる人間がなぜ、落ち込んでいってしまうのか?



それは、「自分が悪い」という事を自覚する事によって、「自分が悪い」人間だと認識してしまう事にある。


おかしな理屈だと感じる方もいるだろうが、本当にそう考えてしまう人間はいる。


失敗した人間は悪い人間なのだ!周囲から疎まれて当然だ!
と考える人は存在する。

要は被害妄想だし自意識過剰なのであるが、本人からすればそんな事は気付かないのである。

そして、そんな「悪い人間」であるというレッテルを自分に貼り付けてしまったが故に気力が湧かなくなる。
周囲に上手く溶け込めなくなる。

それによって悪循環が生まれてしまうのだ。


「自分が悪いんだ!」という箇所で思考停止してしまい、自分を貶めてしまう人間はどうしたら失敗を糧にする事ができるのか?


成長する人間は「自分のこの部分が悪かったんだ!」と思考を進めていく

失敗を糧にして成長する人間は、自分を分解して思考する。


自分のどの部分がこういう風に作用してしまったから、あのような結果を生んでしまったんだ!

だからこの部分を、ああいった方法に修正する事により、今度はいい感じの結果を生む事ができるだろう!


そんな感じに考える。


その思考の最中に「自分自身という存在が悪い」という発想には絶対に至らない。

もっとシンプルにパズルのピースを組み替えるように考える。

そこには期待と創造性が大きな割合を占めている。



だからこそ冷静に自分を観察し改善する事ができるし、自分にネガティブな評価を下すこともない。

これが成長できるかできないかの単純な差である。


自分が悪いという事実は確かなのだろうけれど、それを自分という存在そのものにまで発展させて考えてしまう癖こそが自分をダメにする要因だったのである。


成長する人はもっとフラットに物事を考える。

そんな風に振る舞ったら、周囲から冷たい視線を浴びるかもしれない。

ちゃんと反省している態度を取らなければ!と思ったのならば、それはあなたが自意識過剰なだけであるか、周囲の人間がダメ野郎なのである。


どっちにしろ、大して気にする必要はない。



終わりに

結局は世の中、気の持ちようで案外なんとかなる場面が沢山ある、という好例である。

人間だって様々なパーツで構成されているのだから、部分的に改善、修正する方法を理論立てて思考する事ができれば、なんとかなったりする。


要は「困難は分割せよ!」という事だ。


分割を繰り返すと、そこに意思や責任は存在しなかったりする。


小さな事そのものには、意思も責任もない。

白血球や筋肉繊維に意思や責任を追求する人間はいないだろう。


だが、その小さな事が重なり組み合わさり、社会や生物が存在すると、そこに意思や責任が生まれるのである。


なんとも不思議である。