他人と比べて不幸になってしまう人へ【分相応と諦観】

「私にはできない事が他の人にはできる」という事実

自分にはできない事が他人にはできる。

自分が持っていない物を他人はたくさん持っている。


その事実だけでも十分な悩みの種になってしまうというのに、それを視覚的に見せられたり、会話の中で思い知らされたりした日には藁人形にジャーマン・スープレックスをかましてしまいたくなる程である。


顔は笑顔でも心は鬼の面をして泣いている時だってある。



そして、持っている人、できる人からしたら、持たざる者の気持ちなんてわからない。

そんな人間の違いが人間関係の溝を作っていってしまうのだ。


自分自身のコンプレックス、それによって広がる人間関係の溝。


負のスパイラルはそんな感じで出来上がってしまう。


そんな展開を防ぐためにはどうしたらいいのか?

できる人間の言い分を鵜呑みにしたら胃もたれを起こすだろう

出来る人、持っている人は言うだろう。
「努力して手に入れればいいじゃん」


結局の所、これが「溝」なのである。

持っている人間と持っていない人間の溝はここにある。


持っている人間は、「努力次第でなんとでもなる!」と考えている。


持っていない人間は「どうしても努力ができない状況にある、もしくは多大な努力を費やしたけれども、どうしても成功しない」という現実がある。


思考の枠組みからして、全くの正反対であるのだから、溝が生まれるのは当然の事である。



そんなふざけた台詞を言われた日には、腹の底では煮えくりかえるはずである。

できる人間との大きな溝を感じたならば

実際の所、努力次第でなんとかなるのか?という事については話はしない。


ここでの問題は、自分の実感として十分に努力をしたけれども、どうしても成果が得られない事だからだ。



そんな人間に対しての助言として「努力しろ」なんて無粋な事は言わない。



ならどうすれば良いのか?



身の程を知って、諦めろ!


この考え方がこの場面では正しいと思う。


辛いを思いを抱えずに、ただひたすらに何かを追い求める事はできない。

もう十分に努力した。

自分の能力の限界には薄々気づいている。


そんな人には分相応に生きる事を覚悟するのが良いと思う。

諦めて身の程を知ったからこそ見える景色

絶対にできない事を追い求めて、苦しんで、羨んで生きるのはあまりにも勿体無い人生である。


他の事に目を向ければ自分の才能は花開くかもしれないし、諦めれば人生の楽しみが見えてくるかもしれないのに。


夢は腐ると呪いになるのである。


夢が腐りかけている事に気が付いたら、さっさと捨ててしまって自分の能力を振り返り他の方向に進めばいいだけである。



全く他人と比較しないで生きる事は難しい。


しかし、比較するポイントを柔軟に変化させて気持ち良く生きる事ならば可能だ。

もしくは、自分の長所が活かせる場所へと環境を移動させたって良い。



ないものねだりで幸福になれる人間なんていないのである。

比較されるならば、優位に立った方が幸福になれるのである。

自分という存在をよく知っていた方が幸福になれるのである。


当たり目の事を当たり前に実践することが幸福に繋がるのである。