【iphoneと素材の味】iphoneをありのままで楽しむのか、カバーを付けて装飾するのか

素材の味は「通」の味


自然の味、素材の味を楽しむ、という食べ方があるらしい。


パンにジャムやバターなんかを付けないで、そのままの味を堪能することが「通」であるらしい。

水なんかも、どこにでもあるような水ではなくて、スゴイオシャレな感じの国の霊験あらたかな感じの水をすぐさまボトルに詰めて産地直送することで、質の高い水をそのままに楽しんだりするらしい。



そうやって、調味料を使用しないで味の良し悪しを判定したり、楽しんだりすることが、一部の人達に人気らしい。



美味いかそうでないか、ぐらいの判定しかできない私としては、そんな事は世界の裏側の一般家庭のお子さんが小学校に入学したとか、そういうレベルでどうでもいい話である。
(下手したら私は水道水といろはすの区別もつかないだろう)


つまりは、その物を細部まで知って楽しもう、味わおう、という意識が欠如しているのだ。


私は私が楽しむ事にしか興味がない。


私にとって美味しいか、私にとって食べやすいか、私にとって栄養価があるか。


そういう観点でしか物事を見た事がない。

素材の味を追求する人は=客観視する人


おそらく、素材の味をそのままに、という人は客観と研究と吟味が好きなのだろう。



非常に刺激の少ない何かに対して、その少ない中の細部を意識して変化や違いを感じ取る事を喜びとするのだから、きっとそうだろう。



そう考えるのならば、素材の味を楽しむ事は子供にはなかなか難しいかもしれない。


また、勝手な予測だが、子供やら部下やら会社やら、そういった何かを育てる行動を多く重ねてきた人間というのは、そういった食事が好きなのではないだろうか?と思う。




まぁ、単純にお金持ち過ぎて、どうでもいいことに興味があったりとか、通ぶっている人とか、ビジネスチャンスの発掘とか、そういう目的の人もいるから皆が皆、そうだという訳ではない。



一つの結果しかもたらさない何かでも、それぞれの目的は全く違った物である事は多々ある。

ありのままで楽しまれるという事は、その時点で完成している、という事


素材の味を楽しむ、という事はそれ単体で完成していると見なす行為である。


素材に調味料を使用する、という事はそれだけでは不完全だと見なす行為である。


スティーブ・ジョブズはiphoneを裸で使え、と言い切ったらしいが、そういう一面があって発言したんじゃないかなぁ、となんか考えたりする。



要するに、大多数の人間がケースを取り付けてiphoneを使用する、という事はiphoneはそれ単体では不完全だ、という裏のメッセージを発している事になる。


きっと、それが不愉快だったんじゃないだろうか。



もらったマフラーを、少しデザインを変更したり、長さを調節するために切り取ったりしたら、きっとあげた人は不愉快になるだろう。


もらった時計の上に、オシャレなカバーでも取り付けて使っていたら、きっとあげた人はデザインが気に食わなかったと思って残念がるだろう。



無論、それは使用する側の立場を優先するべきであるから何の問題もないし、提供者が何らかの反省の材料にすれば良いだけなのだろう。





話が逸れた。



それをそのままで楽しむ、という事はそれ単体で完成された物として認識する、という事になる。
(完全である訳ではないのが、きっと重要なのだろう)


ありのままの人間。


人間というのは単独では生まれもしないし、育ちもしないのであるから、何をもって「ありのまま」とすれば良いのかは不明だが、今現在の私をひとまず「完成」であると見なして、観察してみる事が何かの役に立つ気がしてならない。



いつまでも自分にとっての最適な調味料を探し求め歩き続けているような人間が私を含めて大多数であるからだ。



よって現実にそのまま存在する何かと対面で直に向き合う、という事が減ってしまっていると思うのだ。


「もっと良い物が作れるはずだ」


そんな考えは前に進むための良い材料になり得るが、それと同時に今ここにある現実から目を逸らす結果にもなってしまう。



要はバランスなのだが、機会とバランスを見計らって、今ここにある単体の何かをじっくりと観察してみるのも面白いかもしれない。



味は薄いし特徴も少ないけれど、奥に深い何かがあるのもしれない。