つまらない記事を量産するメリット

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例えば、ブログの記事の内容が浮かばないとか


ないものを無理やりひねり出すことによって新しい何かは生まれるのだろうか?



例えばブログで書くことがない!

なんてなった時に、インターネットでニュースサイトや、はてなお題なんかを見て、とりあえずで記事を書いてしまうことはできないことはない。


それはそれで立派な記事であるし、いつまでも自然発生に頼っていたら、普通の人はブログを書き続けることはできない。


だがしかし、そうやって無理やり作った記事というのは、当然自分の心の底からの主張が含まれている訳ではないし、深い知識を有している訳でもない。


結果としては、誰にでも書けるような薄い記事を量産させてしまうことは否めないのである。



まぁ、この辺についてはブログを書く目的によっては、大した問題ではないことがあるので、どうということはないのかもしれないが。



どこかから適当に少しだけ記事の種を拝借して、何かを作り上げる。


自分の中に溜まり続けて、消化され解釈されて自分の思考として完成される。


前者は、どこかの誰かの表面をすくう行為であるに対して、後者は熟成されている。



別に前者を浅い記事というつもりはないのである。


ブログは自由であって良いと思うからである。

ブログの長所と私の成長に伴う駄文の生産


誰でも気ままに適当に。


それがブログに長所の一つであると思う。


そして、心がリラックスしている時に良い何かは出来上がると考えているので、やはりそれは素晴らしいことなのだと思う。



そう考えると、とりあえず適当に書く、という行為ができなくてはそれは実現できないことになる。



人間は歩いている時にアイデアが生まれやすいと言われるが、そもそもロクに歩くこともできないような体力であれば話にならない。


ブログで言うならば、なんでもいいから適当なネタで文章を書き続ける能力に相当する。


その能力を持って、日々の繰り返しをもって、ふとした瞬間に良い物が生まれるのではないだろうか。



なので、薄っぺらい内容の記事が量産されることは別段悪い事ではないと私は結論する。


繰り返すがブログは自由な物であるし、何回も連続で当たり前のように良いものが生産できるなんてことは、特に文学、芸術、発明、研究、その他諸々の分野において、あり得ないことなのだ。




だから、つまらない記事を量産してんじゃねーよ、という批判については私は毛頭聞くつもりはない。
(でも私がネットサーフィンをしている時に、どうでも良い量産記事を拝見したら、やっぱり不快に思うのかもしれないので、やはり私は身勝手である)



何かを無理やりひねり出す、という行為に慣れされることによって自然に新しい良い何かを生み出す能力が構築されていくのだと思う。