揺れる心と信念。てきとーである事と閃き。

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心は揺れる


体はずっと椅子に固定したままで何時間も経過させて読書に夢中になっていても揺れる。


まぁ、止まらない。


心が30分以上止まらなかった事はないだろう。

人は呼吸を止めれば死ぬと言われるけれども、心もまたそれに近しい何かがあるのだろう。


そのくらいに心は忙しい。


今現在は、隣の席の人がちょっと臭い事について一生分の怒りをぶつける気持ちで激怒しているのに、5分後には3年前に見た漫才の一幕を思い出し、心の中で爆笑していたりする。



そんな私の心を鑑みて、本当に手のひら返しが上手で節操がなくて柔軟性があって切り替えが上手で冷酷だと思う。



「誰それが非常に不幸な目に遭って死亡しました!」というニュースを見た1分後にかわいい子犬とお笑い芸人とかを見て心の底から爆笑できるのが私達人間なのである。



信念なんて、あると思い込んでいるだけではないのか

そんな不断に揺れ続けている私の心を観察して思うことがある。


一瞬で感情も思考も振れ幅が0から100に動いたりしてしまう私の揺れを感じて思う事がある。



人間は信念を所有する事が本当に可能なのだろうか?と思う。




まぁ確かに自分の信念を声高に主張する事は可能だろう。


そして、自分には信念があり、それを今まで貫き通してきたと自信満々な気分になる事も可能だろう。



しかしである。


微細な心の動き、揺れ。そんな要素をも含めた上で自分が常に自分の信念に合致した精神状態でいる事ができるのか?となるとまず不可能ではないと思う。


簡単な例を挙げるのならば「いじめは良くない、絶対許さない」といった信念を持つ人でも、どうしようもなく不遇な人生を歩んできた人間について一切の嘲りの心を感じずにいることができるのだろうか、という事だ。


自分のプライドがとことんまで追い詰められて傷つけられた時に、それでも一切どんな人にもどんな物にも当たらずに、見下さずに、ストレスをぶつけずに接する事ができるだろうか。



無理だろう、そんなことは。




この世界には良い人も悪い人も存在するけれど、完全なる悪人や完全なる善人というのは、まぁ本当に微々の微々である数しか存在しないだろう。(どちらにせよ、そういった人間はとんでもない天才でありあまり参考にはならない。)




人の心は揺れるのだ。良い心を持つ時も悪い心を持つ時も、普通に皆当たり前にある。



それを考慮した上で自分の信念を設定しようとすると、あまりにも普遍的な抽象的なレベルでしか設定できなくなってしまう気がする。


まぁ、信念を「自分がそうありたい姿」と定義するならば、それはそれである程度の効用が認められるから良いのだけれど、人間の心は一色に塗りつぶす事ができるのだと思いこんでしまう事は余計な不幸を引き起こしてしまうだろう。



揺れてブレるから新しい


新しさはてきとーな所から生まれるのではないだろうか。


通常の自分とはちょっと違う揺れ方をした時に生まれるんじゃないだろうか。


だから、自分の気持ちが揺れまくるのは良い事なんじゃないだろうか?


頭と体を揺さぶって、いつもは刺激しないような箇所を振動させて活性化させるから、急に何かが爆発して発明が起こるのだと思う。


何かに閃きたいなら、精神統一とか瞑想とかよりも、ジェットコースターとかに乗った方が効果的なんじゃないかな。