イロトカタ

純然たるイロトカタです


SEO的に検索流入を増やしたいからといって、冗長で意味のない長いタイトルを付ける事に嫌悪感を覚える。

チヤホヤされたい

アクセスが欲しい、人気が欲しい、ちやほやされたい。


そんな気持ちが私の中にはあるし、それを実現するためにはどうしたら良いのかという事をふと悶々と考え始めてしまう事がある。


それ自体は何の問題もなく、自己の成長に繋がる行為であるからむしろ良い事である。



ただ、なんでもそうだけど目的を達成するには良いプロセスと悪いプロセスがあり、どうにも不思議な事に悪いプロセスの方が簡単で楽だったりする場合も結構ある。


他人に対して誠意を尽くせば尽くすほど、自分の資産や才能や能力を減衰させてしまう事もあるし、他人に理解させないように、不快になるように行動を向ける事によって多大な利益をもたらすケースだってある。


まぁ、良い悪いなんていうのも、どこから誰が見るかによってその判定は真逆のものへと簡単に変貌するのだから、あまりそこに重きを置くのはよろしくないのかもしれない。


なんでも程度の問題である。

善か悪か、SEO対策

そんな「良いのか悪いのか」よくわからない行為の一例として、SEOによる検索流入アップ、という事が挙げられるのではないだろうか。



別にSEOを意識してサイト作りをしたり、タイトルを決定したり、記事のテーマを進めていったりすることには何ら問題はないだろう。


自分の持っている店が周りの人間に注目されやすいように、皆が通りやすい道に店舗を構えたり、店の飾り付けを綺麗にしてみたり、皆が好きそうな料理を提供する事を卑怯だと罵る人間はさすがに一人もいないのだと信じたい。


これは物理的制約が大きく効くリアルの世界ならば、そんなに大げさな行為に出ることはできないだろう。


だからリアルの世界ではあまり問題にはならないけれど、ネットの世界であると少し話は変わってくる。


SEOによる検索流入アップ、なんていう所は多くの人が関心向ける点であり、多くの人が過度な装飾を行ってしまう点でもある。



それによって、検索結果がSEOの仕組みを十分に理解して、尚且つそれを存分に活用している人間のみが、検索上位に入ってしまう。



その上位に入ったサイトの内容が、しっかりと検索した内容に合致するような、求めていた情報が手に入るような内容ならば何の問題もない。


だがしかし、現実としては内容はどうでもいいからより多くの人に見てもらう、アクセスしてもらうという目的のみを追求してしまい、結果として「検索して目的の情報にたどり着く」という顧客のニーズを満たせなくなってしまう。


まぁ、その辺の話はどうでもいい。


いや、よくはないけれども、他の人が問題提起し議論している内容だから、深くここで掘り下げる事にあまり大きな意義はないだろう。

SEO対策と自分の感情

だから今回はもう一つの大きな問題について話をしようと思う。



「SEOのためにタイトルを命名しようとすると、自分が表現したい事とずれる」

「でもSEOを意識しないと、そもそも自分の記事が誰にも読まれないという結果を産んでしまう」

という話だ。


よくあるジレンマなのだろう。



芸術と商売のジレンマである。


この二人は古来から多くのジレンマを生み出していて、大概の場合、芸術性を高めようとすると大衆性を欠き、商売性を高めようとすると低俗なものへと成ってしまいがちである。



誰もが当たり前に理解できて好ましいと思うものは芸術ではない。


別にそんな明確な定義がある訳ではないけれど、芸術というのはどうにもそういうものらしい。



ただ純粋に書く事が好きでブログをやっている人がいて、その人は金銭は得られなくてもいいと思うかもしれないけれど、自分が書いた内容が誰からも読まれない、というのは耐え難いものがあるだろう。


「頑張っていれば、きっといつか誰かが見守ってくれているから、評価される時がくるよ」


みたいな意味不明な励まし(という名の行為の強要)を昔よくされたけれど、現実でもネットでもそんな都合の良い現実はない。


ネットの世界はもっと残酷である。


毎日の勉学と研究の成果である有用性の高い学術論文であろうとも、SEOを意識していなければ、「無名のサイトを開設して1ヶ月程度のブログ」よりも検索結果は低くなる。




だから、芸術性に生きようとする人間であってもSEOを意識しない訳にはいかない。

現実と折り合いをつける


とはいえ、ジレンマに対して明確な解決方法がある訳がないのである。



この辺に対して上手に線引きができる人は絶対に強いなぁと思う。


もしくは一切線引なんてしないで、商売か芸術かのどちらかに完全に傾いてしまう人は最強だと思う。


だが私を含む一般凡人達はそのような判断、決定を容易に行う事ができないのだから、実際に色々な事を試してみて、そこから自分にとって確かな位置を少しずつ見極めていかなければならないのだろう。