無能でも強く生きたいと願う事は間違っていないのだと信じたい。

自身と砂の城

自信なんてものは砂の城だ。


見た感じがどんなに立派でも風が吹けば、地面が揺れれば、砂が乾けば、ふとした瞬間にすぐに崩れ去ってしまう。


崩れる前までは己の脆さに気づく事は少ない。


自分が脆かったのだと気づく時は、大概の場合、脆く崩れ去った後だ。



信頼とか自信とか人間関係とか妄想とか、そんな想像の中だけで丈夫な支えもなくそびえ立っている概念なんかは滅法崩れやすい。


崩れやすい癖に、なぜか絶対的な信頼感、安心感を持ってそれを愛でて眺めているのだから、本当に不思議なものである。

自信がなくなる前と後の違いなんて物質的な観点では別にない


自信。



自信が崩れ去った後に訪れるのは、「自分は無能である」「自分は死んだ方が良いのではないか」「死にたくない、生きたい」といった思考であると思う。
(少なくても私はそう思った。)



別に自分の中の概念が大きく変貌を遂げたのだとしても、実際自分が所有している能力には、今と今よりちょっと前の間で大きく変化している訳ではないのだから、本当はそんなに悲観する物事ではないのだ。



今は無能だと感じている自分の能力を、過去の自分は誇っていたのだから。


それが勘違いだと思い知る事こそが勘違いである場合だって十二分に有り得る話だ。



たやすく崩れる砂の城は、思考の場合においては、案外即座に復活を遂げたりするものである。

無能でも生きてもいい

今、自分こそが無能者であると悲観している者、自覚している者、誇っている者。


色んな無能の過ごし方が存在するのだろうが、無能という概念が結構曖昧なものであるから、言うまでもなく強く生きたいと思う事を望んでも罪にはならない。


そんな事よりも本当に自分は無能なのか?という問いは入念にしておくべきである。


間違いなく確かな無能も存在してしまうのが世の中なのだが、どうしようもなく無能な人間というのは案外少ない。


それ以上に能力はあるのに、無能だと思いたがる精神的な無能者の方がよっぽど多いのである。



認知されにくい所、勘違いされやすい所において、精神的無能の方が厄介であるかもしれない。



要はちょっと叱られただけで無能だと思う。

周囲の人間が当たり前にできた事が自分だけできなかった事で無能だと思う。

失敗が数回続いてしまっただけで無能だと思う。



まぁ、ショックなのは認める。


だが、そんなショックは誰でも通る道であるし、周囲ができる事が自分だけできない事も運とタイミングの問題では普通に有り得る事である。



そんな事はよくある事なので、その出来事について深く憂慮する事よりかは、その出来事によって「自分は無能だ」と考えてしまう思考回路こそを警戒して改善するべきである。


「無能だけど、私なんかが生きててもいいのですか?罪ではないのですか?」

と思う人も問う人もいるが、「そもそも無能でもないのに、無能ぶって悲劇の主人公を気取る方が罪」である。




そんな事、どうでもいいし、周囲の人も面倒だと思っているから、へこたれずにへらへら生きていた方がまだマシだと思うよ。