「西尾維新/刀語_第十一話_賊刀・毒刀・鍍」の感想、レビュー

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刀語の第11巻である。

もう後ろから数えて二番目である。


今回の話では、自分のルーツ・始まりについて意識される話になる。

虚刀流曰く、俺の父親は親父だけだ。ってな感じなんですが、でもそんなこと言っても自分の生みの親を名乗られたら多くの人は意識しちゃうんじゃないでしょうかね?


歴史の改ざんが目的


四季崎記紀の目的、いや四季崎記紀一族の目的とはなんだったのか?

それがこの巻では触れられるのだが、なんだろうね歴史の改ざんって。


なんであれ、これは未来予知ができる人間でないと発想できない概念である。


運命を切り開くとか、運命を変えるっていうフレーズはどこの誰でも使用するのであるが、「未来が絶対にこうなる!」という宣告がされる事は実際にはない。(そう宣言する占い師や詐欺師の方は存在するが、それに根拠はない)


どうなるかわからないけれど、私はこういう方向に人生を進めていこう!と誓いを立てることは可能だが、実際問題として「自分の能力・努力」によって運命を変えてやった、という確証はどこにもない。




だって、私が何もしなくても「目的は達成されていたのかもしれない」のだから。


「私がやらなくては、絶対にそんな事は起こり得ない!」と確信を持って行動をする人はいるが、そんなのは絶対ではないのだ。


他の誰かが代わりにやったかもしれないし、決意しなくても無理やり実行しなくてはならない結末になったかもしれないし、やると決定した自分の意志だって、誰かに操られた結果かもしれないのだから。


そんなこんなで自分の意志で運命を切り開く、という概念は預言者以外にはまやかしの概念であると私は思う。



将来が決定されているからこそ改ざんしたい


未来が明確に認識できていて、それが悪い未来である。

ならば改ざんしない理由はない。


それが四季崎一族の意向だったのだろう。


こうやって聞くと、「預言者、刀鍛冶」という職業を所有した彼らが非常に主人公チックな印象がある。


そして、その歴史の改ざんに気が付いて元の形に修正しようとしたのが、飛騨鷹比等の意志である。


「運命の意志の通りに生きるのか、運命に逆らって生きるのか」どっちが正しいのかはなんとも言えない所だ。



まぁ、なんであれこの物語の登場人物達は己の目的のために精一杯生きた、という箇所が共通点である。


真庭人鳥だけは生きてて欲しかった


可愛すぎる忍者。

そのくせ、運命に愛されまくってめっちゃ強い忍者。

とにかく、あのおどおどした話し方、子供らしい子供、あと歩く時の動作。


何をとってもかわいいのである。


真庭人鳥を倒してしまった時点で、右衛門左衛門への憧れは失ってしまったのである。


まぁ、彼もカッコイイ忍者だと思うよ。
(不忍なんだっけ、まぁいいや)


でもダメだよね。あんなかわいい忍者を倒したらダメだよね。

だって可愛いんだから。


少なくても、保護施設に送り届けて、毎月の資金の仕送りをして、都度都度様子を見に行って、生活や精神状態に問題がないかはこと細かく観察するべきだよね。