イロトカタ

純然たるイロトカタです


人を助けるってのはいいよな。だって自分と向き合う必要もないし、良い自分だけが拡大されるんだから。

楽と退屈

楽をしたいと思う怠惰心によって人は技術の発展や効率化の推進を行っていくわけだけれど、それが過ぎると退屈が心を蝕んでいって人の生活からみずみずしさを奪っていく。


破壊の限りを尽くして目の前に見える風景を砂漠のような殺風景にすることは、スッキリするし賞賛されるし利益にもなるんだけど、そんな場所にいつまでも立ち尽くしていたら、今度は自分がそんな風景に水分を奪われて干からびてしまう。


刈り取るだけ刈り取ったら、焼き切るだけ焼き切ったら、人はさっさと狩場を移らなくてはいけない。



人は文明と技術の革新発展によって、一つの場所に定住する事ができるようになったけれど、精神的にはいつだって、いつまでも遊牧民なのである。

枯れゆく何か

枯れていく何かに対して私達は効果抜群の対処策を持っていない。


あるのは苦し紛れの誤魔化しか、ツギハギだらけの偽物である。


枯れていく何か、干からびていく何か、どうしようもない何か。


それはどこにあるし、誰の心にもある。


孤独という環境は、自分の心にある乾燥して味気のない上に毒気を十分に放っているどうしようもない何かを見つけやすくする。


他に見る物がなければ、それを見続けるしかないので、己のどうしようもなさと対峙するしかなくなる。


それによって、鍛え上げられる精神性、思想、価値観はそれこそ厳しい砂漠の地で強靭になった人間と同様の精神になり得るだろう。


だが結局のところ、どうしようもないのである。


いずれは枯れゆく何かに人生を賭してまで執着する理由はなんだろうか?そこに人類で共通する理由なんてない。


そうやって生きる人を私は知っているけれど、それはその人の趣味なだけである。皆がそうしなければいけない理由にはならない。

他人のために人助けをする必要はない。

だから、もっと人を助けたらどうだろうか?新しい何かを愛でたらどうだろうか?


祖父母が孫に溺愛するように、どこにでもある、誰にでもあるオアシスを大切にして愛するのはとても気持ちが良い。砂漠があるのならば、オアシスだってまたあるのだ。


助けるってのは、そういう意味で善性から行われる必要はないんだよな。善意を持って悪意を成してしまう人間がこの世界には多すぎるのであるから、その逆を狙って、悪意由来の善行みたいなものを行ってもいいのではないだろうか。


内容成分が、何の善意の欠片もなく、科学と効率の追求によって作り出された私欲の塊であっても、うるおい保湿成分はたっぷりである。



過程はどうあれ、目的はどうあれ、悪人でも善人でも人が幸福になるには人を助けるのが最善の道であると思う。



善意の刃を振るうよりは、悪意の毛布を掛けてやろう。