綺麗事は醜いのかもしれない、努力も醜いのかもしれない。等身大の自分を愛してこそ、なのかもしれない。

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綺麗で完成された何かは、飾り付ける必要がない

飾り付けは、無機質な何かを綺麗にするためか、汚く醜い何かを綺麗にするためにある行為だ。


元から綺麗な何かに対して飾り付けをする人間はいない。みんながそれぞれ持っている理想像に近づけるために飾り付けを行っているのである。


飾り付けは多岐に渡る。


見栄えを良くすることは勿論であるし、他にも自分の思考信念までの自己プロデュースして世間に愛されやすい人格を形成することだってあるし、いつも自分やっている行為について綺麗な命名をして正当化する事だってある。



五感、思想、他人。人は森羅万象を自分のアクセサリーにしてしまう事ができる。



等身大の自分を魅せる生き方。つまりは着飾らない生き方。


それこそが美しいと大衆の心を打つ事は多々ある。この世のほとんどの人間がありのままの自己を肯定することができないからこそ、そのままの姿での自己主張は皆の心に強烈な刺激を生む。


自分の心の根源にある大切な何か、つまりは何にもとらわれない純粋で自由な心は誰にだって美しい物であり、それを勇気を振り絞って衆目に晒す。そんな姿に感動する人間はやはり多い。



飾り付けが過剰になり過ぎて自己そのものが何者かわからなくなってしまう時代において、そういう存在は根源的な自己を呼び覚まして肯定してくれる。


だから等身大で生きられる人間は愛される。

努力ってのは自己否定の塊

等身大は良いことだ。それはわかった。


ならば努力は良いことなのだろうか?

言うなれば努力は自己否定の象徴である。


「今のままではダメだ」という自分を蔑み否定する気持ちから始まる感情だ。

飾り付けの第一歩、理想こそが自己だと信じる綺麗事の始まりでもあるのが努力である。



そんな事を考えると、努力って全く良いもののように感じられない。

どうなんだろうか、他人の人生だから実際の所はなんとも言えないのだが、科学の発展にしろ、戦闘行為にしろ、井戸端会議にしろ、色々な分野で大成を極めた人間というのは、案外ありのまま等身大の姿として、そういう行為を好んでいたのではないだろうか?



意外にもこの世には不幸や争いを好む人種というのが存在するらしい。


そんな具合に私や私でない人にとっては当たり前に不快な何かを他の誰かは愉快だったのではないのだろうか?


努力ってなんなんだろうか?


私はもっと私を知って、それがどんな存在であろうが愛してあげるべきなんじゃないだろうか?


とんでもないダメでもクズでもカスでも肯定してあげる事こそが等身大である。


しっかり自己肯定がされた後で、自由になった心が求める行動は、きっと綺麗事にまみれた努力なんかよりもずっと強靭で創造的で愉快な何かなんじゃないだろうか?