現実がない時は創作に向かう。いや向かわざるを得ないのだ。方向性を持たない何かなんてない。

創造力が失われた時

創作ってのはいいよな、あんなに理想的で自由なものはないよ。


そんな事を昔から口走っていた僕から創造力が失われていた。


どうしてだろうか?


具体的な原因なんかわからない。でも大体はわかる。だって皆が同じようなタイミングで同じような事を始めた時に創造力を失っているからだ。



創造力を失う原因はきっと「現実に必死に対応しようとする」ことなんだ。



ある人は中学受験の時に一人だけ気持ちの悪い、蔑んだ目で僕達を見ていた。ドッジボールで球を投げつける時の目は社会的ヒエラルキーを高めようとするためのそれであって、見事相手にボールをぶつけた時には、純粋な運動と競争の喜びではなく、陣地から人を退ける快感を味わっている顔をしていた。


現実で生きるという事は簡単ではない。


生きるという行為は生存するだけでは満足されない。


いや、満足される時なんてないのだろう。現実に必死で対応しようとする人達は皆、「満足への渇望」に飼いならされているのだから。



人は創造力を失う。僕は創造力を失ったのだろう。失った今、ない事を意識できる今ならば、蘇る事も不可能ではないかもしれない。


今までの僕は創造力を失った事にすら気が付かなかった。


「現実を懸命に生きる」

自分が熱くなれる。世間からも褒めそやされる。経済的にも豊かになるし、愛にも恵まれる。


現実には必要性だけではなく、それなりのメリットも存在するのだ。


だが失うものは当然あった。それが創造力だったという話だ。

創造力が蘇る時

ならば、どうして僕は創造力がない事に気がつくことができたのだろうか?

ないものは意識できない。基本的にはそうだ。




そんな事を僕は思案する。そしてすぐに理解する。


現実と創造は裏表みたいな関係に近しいから、乏しい現実を送っている人間は創造への道が開かれる。



経済的に満たされていはいる。しかし十分でもないし当然ながら満足でもない。そして何より繰り返されている。同じ事が何度も当たり前のように。



「社会の歯車」と言ってしまえば聞こえは良いが、実の所は僕は誰とも噛み合わなかったし、自ら動こうともしなかったのだから「社会」でもなければ「歯車」でもない。ただの肉塊がそこにあっただけだ。



だからこそだ。

そうであったからこそ僕には微かに創造の光明が見え隠れしている。


少なくても意識できるくらいに創造が僕の脳内に出現した。


そこから始まる何かはあるのだろうか?現実から目をそらして見える何かはあるのだろうか?


まぁ、たぶんきっとあるのだろう。


だって、昔の僕は創作について輝かしいイメージを貼り付けて、その幸福を自分の脳内でゆっくりと何度もかき混ぜて景色や色が変わるのを楽しんでいたのだから。


何かがあるって事はその分だけ何かがないって事なんだろう。

何かがないって事はその分だけ何かがあるって事なんだろう。


ない分のある何かって奴が僕を幸福にする保証なんてのはどこにもないのだけれど、それでも人はゴミの山にでも希望を見出してしまう生き物なんだから、結局の所、僕はそこへ向かって走っていくのだろう。