物語の評価が「裏切り性」「感動できたか」で判断してしまうのは資本主義に毒され過ぎだと思う。

感動こそが物語の良さなのか?

よくあるじゃん、最後の3分間で君はこの物語に圧倒される。みたいな。


どんでん返しってのは確かに人を驚愕させるし興奮させるんだけど、その大きさだったり意外性なんかが、まるっきり物語の良し悪しを決めてしまうような評価の仕方ってどうかと思うんだよね。


人間の感動ってのには色々あるんだけれど、驚愕による脳みそへの強烈な刺激はとんでもないものであり、作品が終わった後でも周囲の人間のそれを共有したくなりがちだ。


共有したりとか、大きなリアクションでその作品の感想を語るとか。


そういう心情や動作ってのは宣伝材料としては打ってつけだから、やっぱりそういう要素が好まれてしまうのは必然と言えば必然か。


映画の宣伝なんて、「感動した」とか「泣けた」とか「超怖かった」とか「びっくりした」とか、まぁそんなもんばっかりだろう。


作品の良さを何十秒程度のコマーシャルで伝える切ることは不可能に近い芸当であるし、そんな細かい作品の良さなんてものは大衆に対してお金を拝借する方法としては、あんまり有効ではない。

資本主義社会に毒された物語

映画も本もアニメも漫画も。

世間に共通する感動のツボをこれでもかと刺激して、心と体を振動させて麻痺させて、財布から金銭を揺さぶり落とすことができれば上出来だっていう商売方法も存在する。
(原理としては自動販売機を攻撃して、故障によって中のジュースをたんまり頂くそれと同様である)



感動は大切であるし、裏切り性だって物語を楽しむためのスパイスとなり得る。


しかしながら、スパイスそのものがメインディッシュになり、客の神経を麻痺させてそれを商売とするなんてやり方は物語とは言えないような気がする。



物語とは何か?作品とは何か?芸術とは何か?


まぁ、そんなものに答えはないし、それに明確な答えを付けてしまう事はナンセンスであると思うのだから、そこに紛れもないグレーゾーンが発生してしまうことは致し方ないのである。


いくら明確に線を引いた所で「法の抜け穴」なんてものが発生してしまうのが世の中というものであるから、明確な線引がないものについてはもうやりたい放題である。

ただ腰を据えて、それに向き合う

その辺の劇物に翻弄されずに、物語そのものを楽しむってのはこれだけ情報爆発と過剰かつ偏向にまみれた宣伝活動に晒されてしまうと難しいのかもしれないが、それでも腰を落ち着けて物語に向き合うってことは素晴らしいことであるし、絶対に楽しいことである。


というか最近、まるで本が読めていない。

やらなくてはいけないことが山積み過ぎて、腰を落ち着ける事ができていない。


各個撃破で淡々と腰を据えて何かに向き合った方が、気分の良いし効率が良いと思うのだが、さてどうしたものか。


むやみやたらと部屋の中に本やらゲームやらを散乱させない方がいいのかな。


案外、目に見える所に一つの作品だけが置いてある状態を作れば、それに熱中するようになるんじゃないだろうか、なんて思った。