イロトカタ

純然たるイロトカタです


結婚する前に、子供を作る前に、「どうして私達は子供を生むのか?」を考えた方が良いのかもしれない

家族の喧嘩にありがちな文句


産んで欲しいなんて頼んだ覚えはない!

誰のおかげでメシが食えると思ってるんだ!

お前なんか産まなければ良かった!


多くの家庭に溢れてしまう、ありふれた精神的暴力。


どこの家庭でも使用できる武器、どんなタイミングでも使用できる武器。いつそれが飛んできてもおかしくはない。


簡単に作れて、いつだって振るえる武器であるのに、その効果は絶大過ぎて、場合によっては情で繋がった家族を単なる戸籍上の関係に変貌させてしまう凶器。


言葉を発するのには容易であるがその効力は場合によっては肉体的に暴力を振るうのと同等の効果が得られる。その恩恵を受けてきっと今のこの時間もどこかの家庭の誰か達は描いた理想像とはまるで逆方向へと邁進している。





さて、私の家庭においても似たような言葉の応酬はあった。確かにあった。その度にどちらも譲らず、論理と理性が欠如した言葉のドッジボールを行って、お互いの生活を薄汚れて息苦しいものへと変えてしまった。



そんなこんなでも、私の家族は外面上は家族らしきものを演じることができるくらいにまでは関係を修復することができた。非常に上出来である。円満という言葉がこれに当てはまるのは知らないが、熱が入っていなくても潤滑であれば申し分ないだろう。


ただの喧嘩の文句なのだが、それでも考えておいた方が良いのかもしれない。

確かに産んで欲しいなんて言われた覚えはない。

私達のおかげでメシが食えているのは確かだが、どうして食べさせているのか?どうして産んだのか?

産まなければ良かった!と思うという事は、少なくても本来思い描いていた子供に抱いていた理想像があったはずだ。



産んだ当初は勿論、子供に対する素晴らしい未来を漠然と思い描くだろう、誰だって。


しかし、時間の流れがどうしようもなく人間の心を変えていき、次第に最初に抱いていた気持ちはまるでドラマか何かでも見ているような気持ちでしか向き合えなくなる。


やはり理想と現実は別物。そんな現実に目を背けて親は子供に対峙する。

親が子供を生む理由、多くの場合それに深い思考はない


親がどうして子供を産んだのか?


そんな明確な理由がある訳ない。

素晴らしい人と結婚して子供を授かれたらいいなぁ、と私は漠然としか考えていない。まるで中学生が言う「一生君を幸せにする」「来世でも一緒だよ」「おじいちゃんおばんちゃんになっても一緒に寝ようね」とかそんな感じの勢いで結婚について思考する。


私だけだろうか?いや、きっとそんな事はない。多くの人がそうだろう。


それがマスコミによって脳内情報が捻じ曲げられたものなのか、私の遺伝子の半強制に近い命令なのかは定かではないが、皆がそう考えて子供を生む。とても遠くにあるぼんやりとした幸福な未来を思い描いて。



なので、今現在「どうして私なんか産んだの?」と感じている子供達も将来、子供の時の気持ちを忘却した時には親と同じような心境で子供を作るだろう。

考えても無駄になる可能性の方が高い


恋愛絶頂期の時に、論理的理性的に、「どうして私達は子供を生むのか?」なんて真剣に考える人間はいないだろう。というか考えられないように脳内が変化しているだろう。


だから、タイトルにあるように、「どうして私達は子供を生むのか?」っていうのを結婚する前、子供を作る前に考えるのは極めて困難である。


それでも、ふとした瞬間に正気に戻って、遺伝子やマスコミの命令から脳みそが解放されて、冷静に物事を考えられるようになった時、ちゃんとどうして子供を作るのか?ってことに真剣に向き合う事ができたのならば、少しは何年後かの家庭が良い方向へ向かうのではないだろうか?



仮にできても、まぁたぶん子供が反抗してきた時くらいには、絵画のラフスケッチくらいにしか覚えていないだろう。


それでも昔に真剣に思考した記憶というは確かに残って未来に何らかの影響を残すはずである。


そんな微細な何かが微かに作用して、方向性をほんのちょっとでも上向きにすることは確かにある。



恋愛にしても、結婚にしても、子供を生むにしても、どうにも達成の瞬間という点でしか物事を見れていない人が多いのである。


現実は果てしない線で構成されているから、その辺の食い違いから不幸は足を忍ばせてくるのである。



老後の幸福な夫婦なんてどうでもいいから、どうして今の自分はこれをするのか?って事と、近距離的な具体的未来理想図を描く事をしようと思った。