「昔の自分はバカだった!」って言うけど、その今の考えがバカだという可能性も十分にある。

過去記事の修正をしていると


今自分のブログの過去記事の修正をしている。


今も適当に文章を綴る幸福な人生を享受しているのだけれど、昔ももっと適当だった。


見出しもないし、タイトルも意味不明だし。めっちゃ読みにくいやん!それお客様目線なのかい!って思う文章ばっかりだった。


まぁ、今だって文章事態はてきとーの限りを尽くしているからそれでもいいんだけれど、それでも見出しとタイトルくらいは修正しようと思い立って過去記事の修正を決意した。

過去記事多すぎ!自分の努力がいつか自分を守る壁になるみたいな名言があるけど、自分が作った壁を補習するっていうコストが掛かるって事実は全くもって気が付かなかったね!


いや、どんなに適当で自堕落に文章を書き綴っていても私は継続するって点についてはしっかりと行う事ができる人間であるから、振り返ってみると結構な過去記事があるんだよな。


はてなのトップページで自分の過去記事数を確認してみると、500件近くある。

人気ブロガーにこの画面を見せたならば、
「うわぁ、引くわ、この記事数であのアクセス数は低すぎないっすかwww酷いわwww」

とか言われそうである。それはもう酷い有様だった。


捧げた努力が実を結んだかどうかはともかく、今までの記事がアクセスに貢献しているのかどうかはともかく、それでも私は私が今まで作り上げてきた文章達になんらかの愛着を抱いているので、やはり可愛い子どもたちを格好を綺麗に直してあげて、立派な姿にしてあげたいというのは親として自然に発生する感情であるだろう。


だから私は過去記事一件一件にちゃんと愛情を注いで修正することにした。


見出しがないから、文章を読み直してそれっぽい見出しを付けてあげる。

このタイトルじゃ文章の内容とまるで関連性がないから、わかりやすく命名してあげる。

まるでゴミみたいな文章はこっそり削除する。


そうやって私は過去の記事に真摯に判断を下していった。我ながら立派な親である。



でもまぁ、続けていく内に面倒になってくる。


やっぱり人の最初の決意表明なんてまるであてにならないんだよね。

最近読んだ心理学の本だと、「仕事を行う動機」として、「立派な理由を挙げ連ねる人」と「ただ、なんとなく好きだからっていう人」の両者だと、なんとなくやっている人の方が仕事が長続きするらしい。


外見や上っ面ばっかり綺麗に装飾して、聞こえの良い台詞ばっかり言っている奴にロクな奴がいないってワケである。


上記の私がその格好の材料というわけか、なるほど、納得。



まぁ、納得した所で過去記事修正の面倒臭さが軽減される訳でもないから、毎日のブログ更新を疎かにして、書きたい日々を悶々と過ごして、淡々と過去記事の修正をするのである。


まだ全部修正が終わった訳じゃないけど、その過程で思ったこと


この文章を書いているってことは、過去記事の修正が全部終わったんだね!と思う人もいるかもしれないけれど、そうではない。


だって、過去記事多いんだもん。ブログ書きたかったんだもん。


だから中断して私はこの文章書いている。世の中は一度決めた決意を貫くよりも、社会情勢に合わせて臨機応変に動ける人間の方が成功するのである!という言い訳で自己を存分に肯定化するのである。



そんな自堕落な思考を持って行動でも、それなりの修正を行ってきた。


そしてそれなりに行ってきた何かがあるのならば、それなりに感じる事や考えることだってある。



最初に過去記事を書いていて思った事は「昔の私はバカだったんだなぁ」っていう感想。


で、今思っている事は「どうにも私は過去を否定して現在の自分こそが最上!」って思いたがっているんじゃないかなぁ?という疑問。


どうにも人は生きれば生きるほどに、努力すれば努力するほどに、辛い思いをすれば辛い思いをするほどに、成長して上に行って前に進んでステージが向上するみたいな固定観念があるんじゃないだろうか?と思う。



まぁ、そう思いたがる心理はよくわかる。今までの自分の苦痛がなんの成果にも結びついていないなんて断定するのはとっても難しいことに決まっているのだから。


だから今の私は過去の自分を凌駕していて当然なのだ!だから私の過去記事は修正するべき点が山ほどあるのだ!そして修正する点がたくさん見つけられたという事は私はそれだけ成長したのだ!


そう思い込もうとしているだけではないだろうか?

今の私は賢いのでしょうか?


今の自分自身を正面から否定できるだろうか?


なんやかんやで大半の人間はできないのではないだろうか?


今の自分は成長している、正しい道を進んでいる、正しい思考と信念を持っている。


そう思って生きているはずだ。


だからこそ過去を否定する。


ただ、過去記事を淡々と偉そうに見下すようにバツを付けて削除して修正している自分を振り返ってみると、何か間違っている気がする。


私は過去を否定することで現状を無理やり肯定しようとしているのではないだろうか?

私は誰かに何かを教えてあげる事で自分を肯定しようとしていないだろうか?

私は誰かをバカにすることで自分を肯定しているのではないだろうか?


自己肯定は良いことだと思うが、やはり無条件の自己肯定は非常に違和感がある。