「現実を諦めて受け入れて肯定して楽しいことを見つけて笑う」って言うのは遺伝子的には難しい

知能が高じて不幸になるんじゃ、一周回ってマヌケですよね

なんでもそうなんだけど、人間が不幸になるタイミングってのは、挑戦や夢や願望なんかが失敗に終わった後なんだけれど、実際の所その失敗そのものには深い意味はない。


そこに人が不幸のスパイスを味覚が麻痺するほどに振りかけてしまうからこそ、そこから不幸というのは始まってしまうのである。



現象はただの現象である。にも関わらず人類は知能が高すぎるから、推測想像妄想が度を越して、期待過多による失望によるダメージの増加、被害妄想による無駄な苦悩なんかによって、もがき苦しんで悲劇のヒーロー&ヒロインが誕生してしまう。


その悲劇によって他の誰かが救われるのならば、まだマシなのであるが、残念ながら悲劇のヒーロー&ヒロインは自分も他人も救わないし、結局は自分の傷を社会のせいにして復讐だったり「自分の気持ちをわかってくれない」だったり「周りの幸せそうな人間が憎い」だったりの不純な動機で世の中を荒らし回るダークヒーロー&ヒロインに成り果ててしまう。

今この瞬間を楽しめる人間が幸福になる資格があるというのに


過度な期待は、現実世界の人間とリンクしていると非常に危険である。


「アイツは影で私のことをバカにしているんじゃないだろうか?」

「あの人は良い人でいつも親しげに優しくしてくれるから、きっとこれからも私の味方に違いない!」

「私はこの案件で好成績を取ったから、今後の社会生活についても良い展開が待ち構えているだろう」


そんな空想妄想の類をしてしまう人というのがいる。というか私はしたことがある。


人の頭の中を計り知る事はできないから、なんとも言えない所だが、そういう空想妄想がなければこの現代社会はこれほどまでに歪んではいないだろうから、みんなも似たようなものだと勝手に私は思い込んでいる。



存在しないもの、内容が漠然として不明瞭なもの。


そんな事についてアレコレと思考を巡らせて不幸になるなんて、まるで阿呆のやることである。それで目の前にある美味なる食事の味を堪能する事ができないなんてのはマヌケのもほどがある。


空想妄想は自分が幸福になれる要素のみについて思考すれば良い。それこそが理想的である。

ならば、なぜそれができないのか?

考えなくてもいい事まで考えて、無駄に自分を悲しみの果てまで突き落とす。そんな精神活動をなぜ我々はしてしまうのか?


それは一種の動物的防衛本能であり、危険を察知するためには、それはそれで必要な行動でもある。ということなのだろう。


現代だからこそ、これだけ安全安心に生活を送る事ができているけれど、私達の動物的本能は依然として危険があらゆる所に張り巡らされている時代のままであるから、そういう精神状態こそが動物の生命を永らえさせたのだろう。


昔の時代は幸福に生きる事と寿命を延ばす事は必ずしもイコールにならなかったのだろう。


「現実を諦めて受け入れて肯定して楽しいことを見つけて笑う」ってのは言うのは簡単そうだが、大体のケースは本能が許さない


生命を存続させるために、不幸になるための空想妄想を懸命に行う。


さらなる種の繁栄を行うために、いつまでも欲望に駆り立てられ目を血走らせる。


いまここにある幸福を存分に享受できないのは、先代達の過去を懸命に生きた証であるのが皮肉である。


私は幸福になるために生きているはずなのだが、私の遺伝子は死なないように、種の繁栄を行うために生きているようである。


遺伝子に抗って幸福になることは可能なのだろうか?もしくは遺伝子を上手に騙して幸福感を勝ち取るのは可能なのだろうか?


まぁ、それができないのならば、遺伝子が望む通りに可能な限りの安全安心と極限を追求した種の繁栄を実現しなければ、幸福感が永続するってのは無理なことなのだろうか。


まったく人間ってのは面倒である。