イロトカタ

純然たるイロトカタです


「同じように辛くて苦しい人がいるから、気が楽になって頑張れる」って残酷だよね。

「仲間がいる」って言う素晴らしい残酷さ


自分が辛くて仕方がない。でも色々な人に出会って、自分だけが辛い訳じゃないってわかった!だから私の辛さも楽になった!皆も辛いんだ!


みたいな論調ってどこにでもあって、なおかつそれって私だって誰だって効果が高い情報なんだって事も知っている。



確かに自分だけじゃないってだけで、今までどれほど救われてきた事か。


または、自分より不幸な人間がいるって事実にどれだけ心が安らいだ事か。


残酷で辛辣な意見であるが、しかしながら現実であるし、明確に認める人は少ないだろうが皆も同じような思考回路を持ち合わせていることだろう。

結局、不幸な人間がいることに喜んでいる事実


人間が素晴らしい生き物か、極悪な生き物か。


そんな事は一概に言い切ることはできない。


しかしながら、人間の性質の一端として「自分と同等、またはそれ以下の存在に安心感を抱く」という思考がある。


人間だって生き物であり、「遺伝子的によりよく生きる」って事はすなわち比較というルールの中で上位に入る事だと言える。


つまりは、自分という存在が平均化されたり、自分以下の存在を見て「自分はより下がいる(つまりは自分は上に位置している)」という情報が生物的な脳みそを安堵させるのは言うまでもないことだ。



私は私の生物的な価値を肯定するために、他者の欠陥を探し求めてしまう。


私は私の生物的な価値を守るために、自分と似たような存在を肯定し安心していしまう。

「不幸な境遇に甘んじる快楽」と「より高みを目指す苦痛」


誰だって自分が可愛い。


自分以上に可愛い存在なんてのは、自分の遺伝子を引き継いだ子供くらいな物である。


まぁ、そういう意味では私が一番に愛して止まないのは「自分の遺伝子」なのだろう。


生き物ってのはどこまで行っても自分ありきである。


よって、現在の自分を肯定するような情報というのは、どんな情報であろうともかき集めてしまうのが生物の性だ。


不遇な自分を補強するには、不遇な他者を求める。

不遇な自分を肯定するには、劣悪な他者を求める。


それによって、いずれは自分の精神はリラックスし傷は癒され、新たな活力が芽生える。


しかしながら、その傷を癒やすために己の心に貼り付けた絆創膏ってのは「劣悪な存在への愛情」であり「自分以上に劣悪な存在への侮蔑」である。


つまりは、「不出来を愛して、不出来を見下す精神」が己の心を癒やす薬になっている、という事実だ。

いずれは過去の自分を軽蔑して見捨てなくては成長できない


傷はいつかは癒える。

傷の癒やし方は色々あるけれど、いずれは大体の傷は癒える。


しかし、問題は傷の癒やし方であり、どんな薬や絆創膏を使用して心の傷を治すのかっていうのは、とても重要な内容である。


心の傷が癒えた時、人はまた前を向いて歩き出すだろう。


傷が癒えてまた歩き出すならば、過去に付けた薬や絆創膏は体から除去しなくてはならない。


これから前に進む人間が「不出来を愛して、不出来を見下す精神」のまま前に進む事ができるだろうか?きっとできないだろう。



「有能を愛し、さらに前進しようとする精神」になろうとする人間が過去の癒やしを心に貼り付けたまま生きることなんてできない。


そうしてまた人は変わっていくんだけれども、「常に最新の自分を愛する」から過去の自分を切り捨てることになる。そうしなくては前に進めない。



自分への無償の愛ってのは、その他全てに対して残酷である。