理想の上司と依存と自転車に乗ること

理想を抱く、ということ


なんにでも理想を抱くのが人間である。特に自分が不利益を大きく被っている存在については理想が肥大化する。


例えば、誰かにバカにされた。だからその人を逆に叩きのめす理想を思い浮かべる。逆襲。


例えば、食事に満足できなかった。だから豪勢な食事の風景を妄想する。酒池肉林。


例えば、上司に叱られた。だから自分にとっての理想の上司を思い浮かべる。この記事が書かれる。



大きな理想を思い描く、という事はそれだけ現状に対して大きな不満を抱いている事と似ている。だからその人の理想を詳細に知る事は、その人の不満を理解する事に繋がるだろう。



自分の理想はなんだろうか?


それを深く考えた時に、同時に自分の不満を覗いている事になるのだ。


プラスの追求も、マイナスからの脱却も、蓋を開けてみれば同じ生き物なのかもしれない。


理想の上司と補助輪とお父さんと自転車


理想の上司。


上司とは何か?という定義は本当に人によって異なる。


私が今、深く考える事は、「自分をよりよく成長させてくれる存在」としての上司である。



それを考えた時、上司と初めて自転車に乗った時の体験が重なる。


最初は、補助輪を装着した自転車に乗って、お父さんに背中を押してもらいながら、応援してもらいながら、なんとか自転車を前に進めていく。


補助輪を付けているので、転ぶ事はないけれど、それでも前に進む事が怖いから、励ましの言葉を頂戴して自分を奮い立たせてもらいながら、時間を掛けて前に進んでいく。


仮に転んだとしても問題ない。なぜなら、どうして転んだのかの詳細原因と、もう一度立ち直るための精神的ケアもお父さんがやってくれるからだ。



練習を重ねれば、いずれ補助輪は不要になる。だから転ぶことも多くなる。そんな時に今以上に必要になるのは、力強い激励の言葉と絶対なる安心感だ。私は言われた通りにすれば大丈夫なのだという安心感だ。



その安全な環境で、自分をスキルを高める事だけに集中して、自転車を補助輪なしで父親に背中を押してもらわずに軽快に前に進めるようになるまで成長する。


ようやく自転車を自分一人で運転できるようになってからは、父親は子供に余計に構ったり世話をしたりせずに、子供が行きたいように走りたいように自転車のペダルを踏ませる。それから先は子供がアドバイスを求めてこない限りは極力何もしない。


そんなプロセスを経て、子供は自転車を乗りこなせるようになる。


そんなイメージと理想の上司が重なる。


成長と依存関係


上司に何かを教わる、という事は上司に依存することに他ならない。


依存は大切だ。人は人に依存することで生命活動を維持できるし、成長する事ができる。


上司の指示に依存して、上司の思考に依存して、上司の安心感に依存する。


上司がいる会社においての部下には、多くの場合そういう要素が存在することだろう。



だが、いつまでも依存関係を続ける人間に自立は存在しない。


強く依存する事は自分では何もできないのと同義であるし、依存が皆無である人間は孤独だが強者である。



そういった話を鑑みた上で思う事。


理想の上司とは「依存の調整能力が優れている」人間の事だと思う。


いつ、子供の背中から手を離すのか?


いつまでも子供に補助輪を装着させて自転車を走らせる親は無能だ。


いつまでも子供の背中から手が離れない親も無能だ。


だからと言って、最初から補助輪も付けず、背中も押さず、励ましの言葉が一つもない人間を親と呼称するのは難しい。



上司である、ということはその裏に依存させる、という要素が含まれている。


よって、上司が理想の上司であるためには、「いつ、どのタイミングで上司であることを辞めるのか?」という事を観察し模索し実践しなくてはならない。


上司の最終目標は、上司であり続ける必要性を消去することにある。



部下に指示する事も部下に頼られる事も部下の成長を見る事もきっと楽しい。


だが、その楽しさから身を離し、自分という存在が部下にとって不要となるために行動できる人間が理想の上司なのだと思う。