善意の強要とホメオスタシス【善行が当たり前だとされる社会に】

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良い事をして叱られるとか


良い事は良い事だ。つまりは良い事は絶賛される。


この理屈は間違っている。私にとって良い事でも他人にとっては悪い事の場合もあるから、良い事をすれば絶賛される筋合いはない。


良い事をした結果として、叱られてしまった!だからもう二度と良い事はしない!ってのはあまりにも単純で脆弱で思慮の足りない思考であるのだろう。


その人にとっての良い事、その人にとっての幸せを考えた上で、それをクリティカルに提供できる事を目指せば良いのである。観察と鍛錬と実践を繰り返した所で、相手にとって100発100中の良い事が提供できるようになるかは不明だが、私が良い事をしたいと思った時に、その行為が相手に正しく伝わる可能性は向上するだろう。


相手を幸せにしてあげたい!って気持ちは大切だが、その気持ちだけでは不十分なのである。


良い事は簡単には実践できない。


そして観察と研究の結果、良い事が実現できたとしても、絶対的な得をする、幸せになれるって訳でもない。


それはなぜか?

良いことを提供されるのが当たり前だと感じる人が当然だと感じる人が増える事に起因する。

良いことをするのは当たり前、良いことをするのは当然、良いことをしないのは悪!


人は今まで科学的な進歩を遂げてきた。


世界の裏側の人間に瞬時にメッセージを送るなんてのは何百年も前の人間からすれば、夢物語のお話だと思われていたし、一人一台携帯を所有するって概念だって数十年前には想像もされない事だった。


誰もがこの技術の発展に最初は驚いて感動して感謝した。


でもみんな次第にそれに慣れていって当然の現象だと考えるようになった。自分がその科学的技術の詳細を知り得なくても、自分でその技術を持って製品を作ることができなくても、目の前で実際にそのような現象が起こっているのだから、それは私が所有して当然の物だし、もっと技術は発展するべきだと欲求する。


既存の素晴らしさを無視して、将来の発展を常に欲求し続ける人間の飽くなき本能のおかげで、人類は今まで進歩してきたし、これからもそれは拡大発展していくだろう。



ありがたい事でも当然の事と認識する能力。

そしてさらに高いレベルを要求する本能。


それが科学技術だけでなく、善意についてまでも及んでしまうと社会は息苦しさを増してしまう。



現状に満足しない、より高みを目指す。


こんな崇高な精神が他人への善意の強要という悪癖に変わってしまうのが非常に残念な事であると思う。


善意を強要する人ってどういう人だろうか


もっと良い製品を!もっと素晴らしい技術を!


その欲望自体は悪い事でもないし良い事でもない。


だが、その欲望が「完全なる受け身」。つまりは与えられるだけの側からの思考になってしまうと、これは多大な害を発生させる。
(逆に作り手サイド、つまりは与える側の精神であればその人は大成するだろう)



与えられて当然!もっとサービスレベルが向上して当たり前!だって人類は進化する生き物なのだから。


実際に業務に当たったことのない人、実際にその開発に携わった事のない人がこれを言うのは筋が通らないと思う。


その態度は甘えた態度であり、何もせずとも親が食事を運んでくれる子供のような精神だからこそ、そんな発言が行われるのではないだろうか。



善意を強要する人というのは、おそらくそういう頼り切った、甘えた精神を有してる人だろうと思う。


当たり前の事に感謝することが良い社会を作る


善意をする事を当然だと認識される。


善行をしなければ文句を言われる怒られる。


そんな社会が生きやすいだろうか?絶対に息苦しい社会だろう。



しかし技術発展の著しい時代かつサービス過剰なこの日本に生きていると、そんな状況が簡単に出来上がってしまうのも事実だ。



この社会構造は簡単には変わらないだろう。


だから、個人でできる対応策としては、甘えた人間の言うことまで真摯に受け止める必要はないって事と、いつも通りの事でもしっかり感謝する習慣を付けることが大切なのだろう。



もっとたくさん努力をすれば幸せになれる!


技術の発展にこの思考は大切なのかもしれない。


しかし、その思考を全てに適用してしまうと、後ろからムチで叩かれ無理やり走らされるかの如く善意を強要される羽目になってしまう。


時には、「善行をしない」って事が善行の素晴らしさを再認識させるキッカケになるのだろう。



無論、善行を受けるのが当然だと思う人達は激昂するだろうが、それでも「やるべきでない事はしっかりやらない」って機会も大事だと思う。