文章を書くにあたって「伝えたい事は必要なのか」と考えてみる。

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これを通じて何を伝えたかったのか


書き手が何を伝えたかったのか?


これって物凄く難しい話じゃないだろうか?要は「筆者の意図を答えなさい」みたいなエスパー能力を高める問題が、学生時代の国語の試験にて出題されたような記憶がある。

  • この文章を要約するとどのような意味になるか?
  • 筆者に伝えたかったことは何か?


そんなものわからん。わからんけれど「出題者が何を答えさせたいのか」を我々は数多くの問題を通じて学習して、それを筆者の意図なのだと無理やり脳内に詰め込んで国語の能力を高めていると勘違いしていた。



そういう意味では、国語ってのは文章能力の学問ではなく、社会に溶け込ませるための自己洗脳の学問だったのかもしれない。点数を与える存在、つまりは利益を与える存在こそが絶対であり、その人の要望を必死で汲み取ることが生きる事において重要!そういう訓練だったのかもしれない。

意味を見出す、そこに何もなくとも


一つの文章が存在した時には、「作者の意図がある場合」と「作者の意図がない場合」がある。


どんな文章にも、必ず伝えたいことがあるはずだ!なんて事を私は思っていたが、別にそんなことはないらしい。


「文章なんてものは、一文一文の集合体である」というだけであって、本来はそれ以上の意味なんかない。雲の形が他の何かに見えてしまうように、文章の集合にも何か意味があると人間は思いがちだが、それは見る側の勝手な思い込みに過ぎない。



そう考えるのであれば、ブログにも小説にも、「全体を通して何を伝えたいのか?」って事をそこまで意識する必要はないのでは?と思った。



書き手は一文を幾重にも重ねる事によって、一つのそれらしい形を作り上げればよい。またはなんら形になっていなくても良い。


書き手が「読み手にこういう風に伝えたい!」と思った所で、書き手の意図を100%受け取ってくれる読み手なんているのだろうか?


書き手の意図に関わらず、読み手は読み手の読みたいように読むのではないだろうか?自己を肯定してくれる内容のみを受け取ったり、心が壊れない範囲内で内省をしたり、心の底から不都合な部分は無視したり。


そうやって受け手は、自分にとって必要不必要な部分を切り分けて書き手の文章を食しているのだから、100%伝わるなんて幻想である。そして結局欠落した文章しか相手に届けられないのであれば、文章全体として「伝えたいこと」を保持している必要もまた存在しないのではないだろうか。



形の解釈は受け手の自由なのだから、完成品は受け手の取捨選択によって形作られる。書き手は材料を提供するに過ぎない。



世の中で人気を博している文章って奴は、「多くの受け手にとって好ましい材料を良い塩梅で提供する」のが非常に上手なのだろう。


別に小説のあとがきに「筆者の伝えたいことはコレでした!」なんてコーナーはないのだから、読み手が勝手に作者の意図を理解した気になっているってのが本当の所ではないだろうか。



おわりに


伝えたい事は100%伝わるなんて幻想だ。


確かにそうだが、それを隠れ蓑にして「上手な伝え方」から逃げるってのも、まぁ何か違うのかもしれない。


だからといって、いくら努力と研鑽を行った所で全ての人に自分の伝わるなんて事はありえない。


書き手は書くことを続ける間にそんな材料を手に入れる訳だが、それを通して書き手はどういう解釈を得るのか?それも書き手次第である。


そんな個人的解釈の連続で、バタフライエフェクト的にとんでもない所までたどり着くことにより、他者との思考の距離はますます離れたものになるのだから、私が考えれば考えるほどに、他人に伝わる部分は減っていくのかもしれない。


まぁ、それでもほんの少しでも自分の意図が相手に伝わるのならば、幸せの至りであるし、私が提供する材料で相手が思考や解釈を楽しんでくれるのであれば誠に幸いである。