休めば自然とやる気が出て来るというけれど

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休むだけでやる気が出るなんて、そんなに都合は良くない。

休んだら休んだだけ、もっと休みたくなるんじゃないか?なんて事を思う。


休めばやる気が出て来るタイプの人間ってのは、心の中にとんでもなく無限大な野望を秘めている人限定の現象であって、元々やりたい事がロクにない人からすれば、何もしなくて良い状況ってのは、その人をゾンビ化させていくだけなんじゃないだろうか?



中に何も入っていない人を放っておいても、そりゃ何も出てこないだろう。


少なくてもその人の心に「夢や希望」という種をばら撒いてから、寝かせるかなんかしなければ何も意味はないんじゃないだろうか?



土に肥料もなしに、種もなしに、植物が生えてくるだろうか?


きっとそれは人間にも同様の事が言えて「休めば自然とやる気ややりたい事が沸いてくるさ!」って言うのはちょっと何かが足りないんだろうなぁ、と思う。



じゃあ、問題はその人の心に、どうやったら「夢や希望」を植え付ける事ができるのか?って部分がやっぱり当たり前の部分なんだけど、重要になるんじゃないかと、そう思った。

大人が夢を抱くのは簡単じゃない


当然の事ながら夢ややりたい事があるから人は精力的に活動する事ができるのである。


だから「毎日を熱くパワフルに生きたい!」と思うのならば、それ相応の夢や希望を脳内にインプットしなければいけない。強烈な欲望があるから、猛烈に人は行動できる。



って思う時に、「人はいつ、どうやって夢を抱くんだろうなぁ」と漠然と考えた。



子供の夢は非常に単純明快だ。華やかな職業か儲かっている職業がそのまま夢や希望となる。「よりより生存を!」という遺伝子の命令に忠実に従っている実に人間らしい正しい選択だろう。


しかし大人になると少し様子は変わってくる。



なぜなら「どう頑張っても叶わない夢」ってのがこの世に存在することを知ってしまっているからだ。


大人にだって、極限の理想をイメージする事はできる。しかしそのイメージが現実において実行可能かどうか?という「今までの人生経験というブレーキ」と「明日食う飯を手に入れなければいけないというブレーキ」のダブルのブレーキが、まるでこの世に制動距離なんか存在しないかのように、一瞬で行動をその場にストップさせてしまう。



子供の夢と大人の現実のどちらが正しいのかは、ここでは考えない。


だが、大人が欲望のままに夢を抱くって事は、夢のまた夢なのである。


分不相応な夢を抱けない。しかし自分の純粋な欲望が含まれない夢がエネルギーを持つことなんてない。


現実と妥協を知ってしまった大人に、純粋で多大なエネルギーを伴う夢を手に入れるのは簡単な事ではないのかもしれない。


大人だからこそ、ポジティブに夢をとらえる


大人は現実と妥協を知ってしまった。


だから、心の底から夢を信じる事が難しくなってしまった。


でも夢や希望のない人生は味気なくつまらない。



ならばどうするか?という点を堅実に理論を重ねて思考していける点が大人の強さなのだろう。



子供の夢には何も土台がない。ただ世の中に存在する「スゴイ何か」に自分もなりたい!と渇望するのが子供の夢だ。


しかし大人の夢には土台がある。今までの人生経験という土台がある。


だから、大人の夢は今ある土台から立派な城を作るか、今ある土台を捨てて新しい土台作りから始めなくてはならない。


そう考えると、やはりどうやっても大人の夢は子供の夢に比べるとスケールは小さいし、言うほど自由も利かない。



だからこそ、考えるをまるっと転換させてみるのはどうだろうか。


「大人の夢ってのは結果ではなく「行動や過程」にこそ存在するのではないだろうか」と。



今の状態で達成ができそうな何かに向かって、「どうやったら達成できるだろうか?」と頭をひねって行動してみて挑戦するってプロセスに生きがいを感じるのが大人ではないだろうか。



結論を言うと、つまりは「大人にとっては夢の内容はさほど重要ではない」という事だ。


その人にとっての「理想的な行動や過程」を追求する事が幸せな人生である、という事だ。それならどんな大人にだって実行可能だ。



辿り着く場所が重要なのではない。どれだけ走ってきたかが重要なのだ。



最初に挙げた「夢や希望がないと人は精力的に行動できない」というのは嘘で、実は「精力的に行動することそのものに価値があった」という事を主張したい。



そういう意味で大人には夢はいらない。夢中であれば良いのである。


それがわかれば、夢や希望や目標なんてなくても、きっと十分に休めば気力が湧いてくるはずだ。