イロトカタ

純然たるイロトカタです


あらゆる全てを無に帰す「死」についての論理的対抗策について。

死をもって、その人の全ては消滅される


記憶というのは時が流れるにつれて薄れていくものらしい。


どんなに嫌な思い出も、どんなに楽しい思い出も、何度それを思い出そうが時間という距離は刻一刻と離れてしまうから、やっぱりそこはどうしようもない。


思い出を思い出す行為は、記憶を回復させて定着させる行為ではあるんだけれども、それは「記憶」というよりかは「記録」に過ぎないのかもしれない。


その時に感じた事は、その時を過ぎた瞬間から急速に臨場感を消し去っていく。


これが脳みその限界であり、人間の知恵でもある。


辛い思い出をいつまでも抱えていたら心が重くて前に進んでいけない。

楽しい思い出をいつまでも抱きしめていたら新しい何かを掴んでいけない。



前に進むために、少しでも新しい自分になるために、私達は思い出を少しずつ風化させていく。



過去はどうしても過ぎ去るし、未来は避けようがない。



捨てて忘れて、変わっていく。大切な物を無機質な何かに消化する事で、また人は大切な何かを求めて歩いて行くのである。




そんな繰り返しの中で気が付く。物心がついた時には誰でも考える事だろう。「死んだらどうなるのか?」っていう疑問にぶつかるだろう。



人は前に進むために大切な何かを捨てて行く。その進んでいく先の終点はどこだろうか?そこには何があるのだろうか?


人生の終わり。つまりは「死んだ先」を考える。死ぬってなんだろうか、と考える。




そして「死ぬ」事が恐ろしく感じるだろう。なぜなら、今までいくつもの大切な物を手に入れてきたのに。そしてその大切な物を捨ててまで前に進んできたのに。大きな犠牲を払ったその先には「何もない」なんて事があっても良いのだろうか?ならば私達は一体全体何のために前に進んできたのだろうか。



大切な思い出も、前に進む事も、一切合切全否定してしまう「死ぬ事」を考えた時のは恐怖感は、人生を懸命に生きた人間ほど強烈な物になるだろう。




生きる事に意味はあるのだろうか。


死を意識した時に、そんな疑問と伴に脱力感や無力感が襲ってくるのではないだろうか。




辛い思い出も、楽しかった思い出も、頑張った経験も、私が何日も眠れずに考えた末に出した「生きる意味」も。「死」が全てを「なかった事」にする。



そんな残酷さを、日常的に脳内に抱えこんで生きられる程に人は強くないから。「死ぬ事」はどこか見えない遠くの所に封じ込めて、「死よりも手前」にある「希望溢れる未来」に思いを馳せて今日もまた生きていくのである。




そんな残酷さが脳みそにこびりついて離れない人は、どうしても刹那的な生き方になるだろう。もしかしたら自暴自棄的な生き方になるかもしれない。


「どうせ全て消えてなくなるならば」。何をどうしたっていいだろう。そう思う人がいても不自然じゃない。



死に対する解釈をポジティブ変換しよう


さて、ここまでの話には前提となる考えがあった。



「最終的に全てが無に帰してしまうものは無駄である」


そういう前提があったからこそ、「死ぬ事」によって、あらゆる体験や思い出が完全に消え去ってしまう事に虚無感を抱いて生きるという結果になってしまう。


ある人は死という概念を封じ込めて、誤魔化して忘れて、「終点を考えられていない希望ある未来」に思いを馳せて生きる。

またある人は、死という概念が脳内から離れないで、毎日を刹那的だったり、自暴自棄になったりして、苦しんで生きる。



それもこれも、「最終的に全てが無に帰してしまうものは無駄である」という考えがあるからこそである。



「最終的に全てが無に帰してしまう」


これは絶対的な事実であり、これを揺るがすことはできないだろう。


しかし、「最終的に全てが無に帰してしまうものは無駄である」というのは解釈である。「最終的に全てが無に帰してしまう」に対する解釈である。これは個人が勝手に考えている事だから好き勝手に変更が可能だ。



ならば、これをどう改変したら、自分の人生を面白可笑しく変更する事ができるのか。



「最終的に全てが無に帰してしまうもの」は無駄ではない。という方向に話を進めていければ、今回の解決策としては上々である。



しかし、「無に帰す物」が「何かの役に立つ(無駄ではない)」という論理は成立しそうにない。


でも、ここで一つ気が付く事ができる。「物事は何かの役に立たなければならない」というさらなる前提があるからこそ、最終的に「何の役にも立たなくなる(無駄になる)」事に絶望を感じるのである。



ならば、「物事は何かの役に立たなければならない」という考えに修正を入れてあげる事により、これを解決する事ができるのではないだろうか?


つまりは「物事は何かの役に立たなくても良い」と考えよう。という事だ。


さらに言うなら「無駄を愛そう」「無駄でもいいじゃん」という考えになる。



人間の最終地点である「死」という名の「無駄」を存分に愛す事によって、「人生の虚無感」から逃れる事ができる。



「人生の虚無感」から逃れることができるから、人生を充実させる事ができる。



無駄を愛するって事は逆説的に人生を充実させる思考になり得るのである。



「何かの役に立たなければ駄目だ!」

「何か意味を見出さなければいけない!」


そんな考えは「死」と対面した時にはあまりにも貧弱だ。



そんな時の伝家の宝刀が「無駄を愛する事」である。



そう考える事ができれば、人生のおける、あらゆる諸問題は解決されてしまうように思えるのだが、どうだろうか。



【この作品のボスキャラは「無駄」を否定するような発言を繰り返したから負けたんじゃないだろうか】