大切な人ができる度に、その人を失う怖さで自分の身を消し去ってしまいたくなるけれど。

スポンサーリンク

大切というリスク

大切な人に限った話でなくてもいい。


大切な物でもいいし、自分にとってもかけがえのない夢でもなんでもいい。


人生において重要な価値をもたらす何かを手に入れた時に、人は同時にそれを失う怖さを手に入れる。影のない空間を自然に作るという事はどうにも不可能に限りなく近い課題のようである。



だから、そんな恐怖に戦慄して、まがい物の幸福ばかり、失いにくい薄い快感ばかりを収集して安全を気取って生きていく人も存在するし、空想の概念を作り出して、死んだ人間や死んだ物や自分のこの世での努力は死というイベントの後でもその形状を失わない、という思い込みを胸に抱いて生きていく人も存在する。



空想も自分が本当だと思いこむことができれば、それはそれで一つの解決策なのだろう。まぁその辺の恐怖への対処策は人によって本当に様々だし、救われ方の違いによって、人々が争い合うってものまた面白い現象である。

失う恐怖を回避する方法

何かを失う事は怖い。だからそれを回避したい。極々当たり前の人間の心理である。


その手段として先に挙げたような行動を実践する人もいるだろう。


十人いれば十通りの手段があるのだけれども、今回は「自分を消し去ってしまう」事によって大切な何かを失う恐怖から逃れる、という手段を取っている人について考える。



自分を消し去ってしまう。


文字通りに意味を汲み取るのならば、自分の脳みそと身体をこの世から消し去るって事である。


そうすれば、大切な何かを失う恐怖から回避する事ができる。


肉体的精神的苦痛はあるかもしれないけれど、現代の薬学や技術はそれを大幅に軽減してくれる。


自分の身から離れた大切な何かが消え去るタイミングと苦痛の量はコントロールすることができない。


しかし自分の身であるならば、消え去るタイミングと苦痛の量はコントロールが可能だ。


だから、そういった手段で、大切な物を失う恐怖から回避する人間が存在する事は否めない。また効果の高さも否めない。


大切な何かを看取る大切さ


大切な物を大切だと思うえば思うほどに、大切な物を失う恐怖も膨れ上がる。だからそんな、いつ到来するか一切不明の事件から逃げ去るために、自分をこの世から逃してしまう、という手段が先に挙げた話だ。



ここからその話について異を唱える。それでいいのだろうか?本当にそれは大切な何かだったのだろうか?



例えば、大切な何かが人だったとする。


その人が突然消えてしまう恐怖を消すために、先に自分を消す。これは一見合理的だ。


だが、その人が味わう「自分が消えてしまう恐怖」についての考慮が足りていない。あなたが大切だと思う人には、きっとあなたも大切だと思われている。


結局の所、大切な何かを失う恐怖は誰かが味わう羽目になるのである。ここで言うと、あなたの大切だと思う人が、その恐怖と絶望を味わう事になる。



本当に、何かを大切だと思うのならば、その大切な何かが消滅するまで看取るのが、その人にとっての一番優しい行為であると、私は考える。


その考えが欠如して、自分の精神をただ防御するために、大切な人が感じる苦痛を無視できる程度であるならば、結局の所、大切だと思っていた人は実はそんなに大切ではなかった、ということになる。だからとどのつまり、どの道自分の身を消す必要性は皆無であるという事になる。



大切でなければ逃げる必要はないし、大切であれば逃げられないのである。



だからこそ、自分が大切だと思う何かについて、死ぬまで自分で看取るって事が重要になってくるのではないかと、そんな事を考えた。


全ての動物や物は死に絶えるのである。大切な何かが死に絶えるまで見つめるって事が愛情なのだろう。



何かを大切にして愛情を注ぐって事は生半可な気持ちじゃできないのだろうなぁ、としみじみと思う次第である。