イロトカタ

純然たるイロトカタです


信頼って言葉に違和感がある、要するに賭ける価値があるか?という事ではないか。

「信じたのに裏切られた!」というセリフは責任放棄だろう


人は誰かを信じる。


その人の常日頃の生活態度を見て、「コイツなら信じられそうだな」と自分自身で考えて誰かを信じる場合。

もしくは、その人から「大丈夫です!信じて下さい!」と言われて、その熱意に打たれて誰かを信じる場合。


そのどちらのケースであろうとも、信じた結果として、信じたように相手が動いてくれないケースはいくらでもある。


そしてその度にある人は言う「信じたのに裏切られた!許せない!」と。


まぁ、明らかに虚飾や虚偽が多分に紛れ込んでいて、意図的に騙されてた、というのならば幾分かの同情の価値はあるだろう。


しかしながら、自分で勝手に信じておいて、想定外の行動をされたから勝手に憤って「裏切られた!」と発奮する人がいる。



競馬場の馬じゃないんだから、何いってんだって感じである。

言葉は虚飾にもなり得るから、中身はちゃんと確認しよう


つまりは投資に失敗した。ただそれだけの話であって、それならば自分の洞察力や予見力を罵倒するべきであって、賭けた相手を恨むのは筋違いである。



こんな当たり前の話なのに、「信頼」という綺麗な言葉でその事実を覆ってしまうと、簡単に他人に責任転嫁ができるようになってしまうのが、言葉の不思議である。


「信頼してるからな」


こんな言葉を私は生涯で一度も言われた覚えはないし、仮に言われていたとしても寒気が生じてその日は風邪を引いていた事だろう。



だが、その反対にこの言葉を掛けられて狂喜乱舞するほどに喜ぶ人もいるらしい。


他者から見て自分が価値のある存在だと認められる事は、まぁ自分が金銭を生み出せるという意味合いでは良い事なのかもしれない。


でも、残念ながら、利用価値があると思われているだけで金銭を渡すつもりは、全然ないかもしれない。


その辺の線引ができずに、「信頼されている」という一点のみで自分に価値を見出すのは、宝くじを購入できただけで三億円が当たったつもりになっているようなものである。

「信頼してる」を信頼するための調査は必要である


他人の期待に応えようとする人。


なんとも誠実で健気なのだろうか!


だが、信頼という手綱を上手に操る人間からすれば、なんとも使い勝手の良い相手だろうか!



他人の評価一つで、喜怒哀楽がメトロノームみたいに触れ回ってしまう、という事はそれだけに他者に依存している何よりの証拠でもある。


他人にどう思われているかってのは確かに大事な指標だが、それだけで自分の感情や人生を大きく揺るがすほどの価値はない。


それも、たかが他人の言葉だけの話である。


「愛してるよ」の言葉一つでだけ散々貢いで捨てられる男女は健気で誠実とは言わない、阿呆である。


「信頼してるぞ」という言葉の重みを知るために、「信頼してるぞ」という言葉を信頼するために、信頼される側も相手を推し量る必要は必ずあると思う。


「本当に愛されているのか?」を懸命に確認しようとするのは、される側からすればうっとおしいかもしれないが、それは理にかなった行為である。


信頼は能動だろうが受動だろうが依存である。


「信頼って言葉も、多くの人間にばら撒いておけば、たまに自己が確立されていない、他人に依存する奴らが引っかかるかもしれないから、ノーリスクでお得な手法!」


そう無意識で考えて実践している人もいるだろう。


まぁ、ピグマリオン効果って言って、期待される人間は成果を出しやすいというものがあるらしいから、他人の信頼も一概には馬鹿にできないけれど、社会でも他人の期待ってのは、回り回って自分への利益のための期待だから、警戒するのは大切だと思う。


「信頼された人間の期待は裏切りにくい」ってのは善良であればあるほどに、その傾向が高いから、他人にコントロールされないように気を付けよう!って話である。


「信頼する側」も他人が自分の期待通りに動いてくれると思って、計画するとロクな事にならない。それはそれで信頼する側もまた他者に依存しているのである。


依存がなければ騙される事も裏切られる事もない。