何かを批判、馬鹿にするということは、選択肢や自由度を減らしてしまう効果がある。

スポンサーリンク

かわいいってのは、弱くて自分より下の存在って見方もできる

何かを見下さない人間はいない。


人は何かを見下す事で、自分の価値を保つのである。



かわいい動物を愛でる事で精神的な癒やしになるって事も、穿った見方をするならば「自分より劣等な生き物を観察して、自己の価値を回復させる」とも言える。


小さくて私がいなければ生きていけないような動物をわざわざ遺伝子を操作してまで作り出して、ペットとして飼うなんて行為なんて、それの表れだろう。
(確か、ティーカッププードルなんかがそうだったと思う)


別に悪い事ではない。そのか弱い生き物をちゃんと大切に育てて飼育するならば、傷つく生き物はそんなにはいないだろう。少なくても、無差別で根拠が乱暴な誹謗中傷や罵倒や批判なんかよりはマシだろう。



方法は人それぞれだが、人は自分より下位の存在を頑張って創造して自分の価値を保つのである。


人の価値は絶対評価ではなく、相対評価なのである。

誹謗中傷のデメリット


だが、「誹謗中傷」や「罵倒」や「根拠のない無差別な批判」は辞めた方良いと思う。
(可愛い動物を愛でていた方が何百倍もマシだと思う。)


言うまでもなく、他人に迷惑を掛けるし、迷惑を掛ければ復讐される可能性も上昇する。


だが、それだけではなく他者への無闇な攻撃は「自分の将来の選択肢や自由度」を減らす効果があるから、辞めた方が良いのである。



それはなぜか?


簡単な話である。


「自分が罵詈雑言で馬鹿にした対象物を好きになれるのか?」


これだけの話である。


自分が唾を吐きかけて、結構な時間が経過した物体を口の中に含む事ができるだろうか。最近の罵詈雑言はレベルが高いから唾ぐらいでは済まないかもしれない。


そんな物を価値の高い物だと認識して己の中に取り込める人間がどれだけいるだろうか?非常に少ない事は確かだろう。



つまりは、大した理由もなく、ただ「何かを見下してストレスを発散したい!」という目的で無闇矢鱈に攻撃を行うのは、その攻撃の分だけ自分の将来の選択肢を刈り取っている事と同義なのである。



「よくよく考えてみたら本当は良いものだった、やってみたら実は素晴らしかった。」


よくあることなのだけれど、一度自分が感情的に憎んでしまった物に対して、まるで逆の評価下すのは難しい。



罵詈雑言を繰り返して、何かを批判する快感に酔いしれて中毒になってしまうと、偽りの自己肯定感と「理由や根拠は述べられないけど、社会はクソだ!」という絶対的な理念を基に、何も出来ないで悪態を垂れる人間が完成する。



役に立たない人間なので、どこの社会からも受け入れられない。その結果さらに社会を憎む。悪循環が続き、最終的にどこに到着するのかは不明だが、あんまり良い場所ではないのは確かだ。

理由のない誹謗中傷を行いたくなった時の対処法


「根拠のない批判は悪だからやめろ!」と言って皆が一斉に辞めるのならば、世界は平和である。


しかし、そうもいかない現実がここにはあるから、人間の英知を活用した打開策をここでは提供する。




f:id:ideal_real:20170717113400p:plain


f:id:ideal_real:20170717113420p:plain


f:id:ideal_real:20170717113646p:plain



はい、世界平和をどうぞ。



憎しみを消滅させるのは、愛情である。


見下すとか自己価値の補強とか、そういう皮肉たっぷりな表現もあるけれど、思考停止で可愛い生き物を存分に愛でている状態が一番幸福に溢れている事実を我々は何度も脳に刻み込む必要がある。



過程はどうあれ、最終結果として愛という精神状態でいる事ができるのならば、それでいいんじゃないだろうか?