続ける理由が不明確でも問題ない。続けたいと思える気持ちこそが宝物である

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理由なんてのは、社会を納得させるためにあるもの

やりたい事に理由はあるだろうか?


ある人もいるし、ない人もいるだろう。


やりたい事に理由がある人は言うかもしれない「明確な理由もないのに続けているなんてバカなんじゃないのか?」と。



理由なく続ける、なんとなくやりたいから続ける。曖昧な動機は他者に怠惰を印象付ける。


逆に論理的で明確な理由を持っている人は、社会的見栄えも良いので、そっちの方が立派に見える。



だが、別にやりたい事に理由なんてなくていいんじゃないのか?続ける理由なんて別に必要ないんじゃないのか?


と今の私は思う。


世間体を気にしても、事は長くは続かない

なぜブログをやるのか?とか「ブログをやるメリット!」なんて話はよく話題の種として上がるのだが、結局の所は「理屈を後付している」ように思える。



崇高な理念を掲げる人もいるし、ブログで得られる恩恵を主張する人もいるのだけれども、人間ってのはもっと単純なんじゃないだろうか?



「単純に長く続けていたから今も続いている。」

「単純にブログをやっているのが楽しいから続いている」

「単純に儲かるから続けている」



この程度なんじゃないだろうか?きっと。



ただ、社会という場所で意見を述べるには、それでは格好が付かないから、それらしい理由を無理やりひねり出して、そこの綺麗な装飾を施しているだけなんじゃないだろうか?


崇高な理屈を振りかざす人や、「明確な理由もなく続けている人間」を罵倒していた人が、急に大仰な理由を美辞麗句で装飾した挙句、格好付けながら、ふいに消失したりする場面を何度か見ている私からすると、そんな事を思ってしまう。

理屈よりも感情の方が圧倒的に大事


理由なんていらない。それよりも純粋に「やりたい」「続けよう」と思える気持ちの方がよっぽど重要である。


崇高な動機よりも、「これから何をしようかな」と思える希望の方が大切である。


よって、続ける理由はないけれど、続けたいと思う気持ちはある、という事こそが宝なのである。


理由がない事に落胆する必要はない。気持ちがない方がよっぽど問題なのだから。