イロトカタ

純然たるイロトカタです


やりたくない理由を考えるよりも遥かに有効なシンプルな改善策

やりたくない事の先に手に入れたい物がある場合

どうして私はこの行動に嫌悪感を示して拒否してしまうのだろう?


そうやって延々と考えて太陽を西に沈めてしまう人がいる。延々と考えるからには、それ相応の深い理由があるのだと断定して、ありもしない想像の出来事や、砂の粒みたいな問題をあたかも巨大隕石かのように捉えて自分には、やらないだけの十分な理由を持っていると確信して、その行為から逃避してしまう。



「やりたくない事をやっていても幸せになれないさ!」


そんな割り切りと一緒に、やりたくない事をやって懸命に生きている人に言葉の石を投げつけて自分の身を守る事に専念するタイプの人間もいるけれど、そんな人が何かを極める姿を私は見たことがない。




無論、苦しむ事が最上と主張したい訳ではなく、楽と苦とかにとらわれないでより良い物を追求していける人間がより良い物を手に入れられるに決まっている、という事だ。



やりたい事をやるだけの人生。やりたくない事だけをやらない人生。


命の使い方はその人の自由なのだから好きにすればいいが、「やりたくない事を乗り越えてでも手に入れたい何かがある」のならば、自分が何故それを嫌悪するのかは突き詰めた上で答えを出しておくのが良いだろう。


やりたくない事のシンプルな理由


やりたくない事がどうしてやりたくないのか?


私の経験から考えた私なりの回答としては、以下のようなシンプルな事だと思っている。

  • やり慣れていないから抵抗がある
  • 成功体験が不足している

やり慣れていないから抵抗がある


やれ。できないのならば他人がやっている事を観察するから始めるのが重要。テレビの宣伝が印象と繰り返しだけで人民を操ってきた歴史を模倣して自分自身をより良い道へと導くのが大事。


テレビはたった数千円以内の商品を買わせるために、多大な宣伝費と美麗な人間と凝りに凝った企画を詰め込んだ数十秒の情報を何回を繰り返す。


テレビに嫌悪感を持っている人は多いけれども、テレビの情報操作能力だけは上手に自分の脳みそに取り込むのが得策だろう。


成功体験が不足している


つまりはその行為に気持ちの良い感覚が伴わない、という事である。


Aをやったら褒められた。

Bをやったら叱られた。


だからAはたくさんやるし、Bはやらなくなった。


人間の基本的な行動原理はこれだけである。


子供の頃の好き嫌いの判断基準の大半は親に委ねられていたが、ある程度成熟した人間は「好き嫌いの基準を自分で定義」しなくてはならない。


ただ流されるままに好き嫌いを決定しているだけならば、世間に都合の良い方向へと流されるのは当然だろう。



「頑張った自分へのご褒美」を馬鹿にはできない。


ある行為への報酬を自分でコントロールできる人間が「自分の好き嫌い」を操れるのであるから、報酬については自身で考える癖をつけると自分を思うままに操れるようになる。



不足しているのは能力ではない


やりたくない事について、いつまでも脳みその中で葛藤させるのは時間の無駄である。


そんな時間があるのならば、その時間を利用して疑似体験や部分体験をした方がよっぽど効率が良い。



今の自分を少しでも理想の自分へと引っ張って行ってあげられるもう一人の自分を持てる人間は強い。



現実の自分、理想の自分。それを仲介する先生のような存在の自分を作り上げよう。



能力を補うのではなく、役割を補う事で改善される事は多い。