桃の缶詰ってのは、「桃さえ入っていれば」オッケーっていう発想。【生き物の販売形態について】

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中に桃があれば、それは桃の缶詰である。

桃を缶に詰めると桃の缶詰になる。それはわかる。


ならば、100%まるごと桃を使用したジュースは、缶ジュースではなくて桃の缶詰と呼んでもいいのだろうか?だって、この缶には桃しか入ってないんだよね?ならばそれは桃を缶に詰めた物なのだから、桃の缶詰と言っても差し支えないはずである。


しかしながら、この両者には絶対的な差異がある。


それは個体であるか、流体であるか、その違いである。



ジュースとは、液体を表す言葉であるから、個体の桃が入っている缶を桃のジュースとは言えない。


しかし、液体であろうが、桃しか入っていない缶ならば、それは桃の缶詰と呼称しても意味合い的には問題ないだろう。


よって、「桃のジュースを買ってきて下さい!」と言われた時に桃の缶詰を買って来るのは間違いになる。

しかし、「桃の缶詰を買ってきて下さい!」と言われた時に、100%まるごと桃のジュースを買ってくるのは、意味合いとしては正しい。まぁ人間関係的には間違っているが。

生き物系はどんな形状で販売されているかが超重要

要するに、「桃の缶詰」は「缶に桃が入っている」という条件さえ満たせば、それで成立するのである。極々シンプルな制限しか、そこにはない。


まるごと入っていようが、ぶつ切りになっていようが、液状になっていようが、桃が缶に入っていれば桃の缶詰である。
(まぁ、「液状になっている」という事は日常的にあんまりないケースなので、大概はぶつ切りかまるごとであるのだが。)


なんともダイナミックな名称だよなぁ、と思う。


要はそこに桃があればいいのだ。だから桃の缶詰なのだ。



じゃあ、あれか。「豚の袋詰」なんて商品があってもいいのかな。



さっきは桃だったから幾分可愛かったけれど、豚だとなんか色々とまずいイメージが湧く。


「あれ?これって豚がまるごとはいってんじゃね?もしそうじゃなくても、骨とかも一緒に入ってても文句言えないよな、だって豚なんだから骨が付いてるのは当然だろう。でも、まさかその状態から調理させる訳ないよな?この現代社会に」


なんて妄想が膨らんで仕方がない。これが、桃の缶詰同様に、開けてみないと中身が見えない、なんて言う梱包状態だったらどうすんだろう?


私はそんな商品買えない。無理。


やっぱり生き物系は、どんな状態で商品が販売されているのかは、しっかり明記すべきだし目に見えるように透明なビニールで包んで販売すべきだよね!っていう当たり前の結論に至る。

食事は生き物を命を奪う行為だが、そこを誤魔化して人間は生きていく

逆を言ってしまえば、果物類ってのは、中の形状がどうだろうが、大した問題はない!って信頼が全国民から為されているからこそ、缶詰になっているのである。




果物やら野菜ってのは、基本的に見た目が綺麗な物が多いので、中身がどんな形状になっていようが、外から見たら見えない構造の商品になっていようが、あんまり問題はない。


しかし、血の通う物については、けっこう気を遣わなればいけないのだろう。


昔、芸能人が「マグロが切り身のまま海を泳いでいると思っていた」なんて発言をして会場を湧かせていた記憶があるが、そのレベルで血の通う生き物の販売については気を遣っているのだろう。


できる事ならば、綺麗な見た目の食事を体に取り込みたいと思うのが人の心情である。


だから、場合によっては生きていた時の姿からは想像も付かないような姿に変形させて売り出すのである。


桃の缶詰は愛されている


どんな形状であっても、桃でさえあれば許される。


それって愛だと思う。愛されている存在だからこその理屈だと思う。


私は十年前の姿と今の姿と老後の姿。全部を引っくるめて許容してくれる人間がいるのだとすれば、それは紛れもない愛だろう。


そういう意味で私は桃を愛している。


桃の缶詰と称した商品の中に、液状の桃しか入ってなくても私はその桃を食すだろう。
(まぁ後でちゃんとお店には報告するけど)


皮さえ剥かれていない桃が入っていたとしても、剥いて食べるだろう。
(まぁ後でちゃんとお店にはクレームを付けるだろうが)



それは桃の形状なんかどうでもいいと思っているからである、桃であればそれで良い!と思っているからである。


桃の缶詰ってのが長い間、売れ続けているって事はそれだけの愛を一心に受けている存在だからである。