屁理屈とは何か

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屁理屈とは

自分にとって都合の悪い、不利益になる、気に入らない理屈の事。だと私は考えている。



善人を気取った人がよく言う「ふざけた屁理屈をグダグダとこねて、、、、」みたいな言い回しが非常に嫌いである。なんなのだろうか、あれは。


相手の理屈を正面から受け止めて、その理屈がどうしておかしいのかを論理的に指摘しようとする気持ちは皆無である。相手の論理としては「自分が正しいと思う事に反している」から絶対に悪い事である、という程度のものである。相手に対する聞く耳はまるで持っていないのである。



何のための理屈なのか?何のための論理なのか?


一見悪そうに見えるものならば、過去に正義だと教えられたものと違っていれば、もうその時点で屁理屈だろうか?




屁理屈という言葉の辞書的な意味は知らない、調べるつもりもない。


辞書の意味がなんであれ、屁理屈という言葉は現実では「他者の論理を暴力的に排除する目的」にしか使用されていないのだから。

屁理屈とは論理的に見せかけた暴力みたいなもの

屁理屈だと罵られるくらいであれば、まだ理詰めで論破された方がマシ。まぁ、理詰めの論破も受ける方はかなりのストレスにさらされるから勘弁願いたいが。



「屁理屈」だと言われた時点で、もう話し合いの余地はなくなる。


「お前の論理はダメ、とにかくダメなんだよ!」と罵倒しているようなものである。その癖、相手はそれが論理的で理知的だと思う所が非常に厄介である。



討論で馬鹿に勝てる奴はいない。討論で強い人間というのは、論理的能力に優れた人間を除けば、「馬鹿な癖に、自分は知能が正しくて絶対的に正しいと思い込む事ができる人間」なのである。



結局、討論の勝敗は第三者が決定するケースが多く。大抵の場合、第三者の全てが「論理的で理知的な性質を有している上での判断できる」なんて事はない。結果として「見栄え」の要素が非常に重要視される。



自分を利口だと思いこんでる馬鹿ってのは、相手を侮蔑して教えてあげるという姿勢で話をするし、激昂もしないし堂々としている。それ故に第三者からすると正しい事を言っているように見えてしまうのである。


それに、奴らは道徳の教科書に出てくるような正義が大好きであり、「論理を追求した結果たどり着いた、外見は悪に見えるがより社会のためになるもの」を徹底的に否定する。


結果として、無難な判断をしたがる一般人の第三者からの受けが良くなるのである。崇高な理論であろうが理解できなければゴミであるし、浅い考えであろうとも見栄えが良ければ大衆はそちらに票を投じる。


よって、深く考えもせずに屁理屈という言葉で気に食わない論理を排除する人間が一定数存在する事になる。


討論とか話し合いがプレゼン大会になっている件について

そう考えると、討論ってのはプレゼン大会みたいなものになっているのだろう。


本当に正しいか悪いか、ではない。正しく見えるかどうかの方が重要視される。


一見悪そうに見える論理であれば、態度が軟弱そうであれば「屁理屈」の一言で一蹴してしまった方が簡単に始末できるし大衆からのウケも良い。



こう考えると、政治家の類に「どうしてこんな人間が政治家をやっているんだ?」と思うような人間がたくさんいるのにも頷ける。要は本当に正しい意見を言うのではなく、正しいと思われるような意見を言うのが得意であったのだろう。



とは言っても、それを容認して野ざらしにしているのは民衆であるし、見栄えの良い存在を浅い思考で認めてきたのも民衆である。


とは言っても、民衆の全てが理知的ではないし、論理的な思考をできる訳でもないのだから、仕方のない部分もあるだろう。



根本的な解決を即座に実行できるような案はないけれど、それでも屁理屈って言葉に警戒する事はすぐにでも実行可能だし、それによって深い思考を始めるきっかけにもなるだろう。



少なくても、「屁理屈」という言葉が相手の口からこぼれたのならば、「私の言う意見のどこがおかしいと思うのですか?」「あなたの思う屁理屈の定義を教えてください」とでも言ってみるのが良いだろう。きっとロクな回答は得られないだろうけれども、それでも相手の暴力的な論理を防ぐ事はできるだろう。




定義が曖昧な言葉には細心の警戒が必要である。