他人を通せば人はどの道、苦しむのである。【他人の幸福は毒の味、蜜の味】

他人の不幸を喜ぶ人間に不快感を覚えるならば

たぶんその人は幸せなのだろう。


大概の人間は、他人の不幸は蜜の味であり、他人の幸福は毒の味がするからである。


道徳的なおとぎ話ならば、万歳三唱で他人の幸福を喜んで、他人の不幸を悲しまなければいけないのであるが、現実はそんな簡単な話にはならない。


自分が泥水を舐めている時に、誰かが美酒に酔っている風景を見せつけられたのならば、不快に思うのは極々自然な事である。むしろその様子を見て心が苦しめられながらも傍観するだけで我慢できるのであれば、その人の人格は十分立派だ。普通の人ならば、悪口や嫌がらせを行ってきてもおかしくないレベルだ。



厳密に言ってしまえば、「自分より不幸な人間は蜜になる」し、「自分より幸福な人間は毒になる」という方が正しいのだろう。


自分が毎月20万円稼いでいるとして、友達が10万円稼いで喜んでいる風景をみても、別に不快な感情を引き起こしたりはしないだろう。むしろ優越感に浸れるだろうし、「ちょっぴりくらいそいつに優しくしてやってもいいかな!」って気分になれる事だろう。

道徳心との葛藤


「他人の幸福を妬む私はなんて醜い人間なんだ!」


こうやって自分を否定して葛藤した経験が私にはあった。学校の道徳の授業のように、幸せな人間は無条件で褒め称える事こそが正しい事だと思っていたからだ。



結果として、道徳的な人格を獲得する事は失敗に終わる。


自分より幸福な人間はいつまでも経っても妬ましいし、誰かを手助けする事はたくさんあってもその際にはなんらかの優越感がまとわりついていた。道徳的な人格を獲得する事は難しい。



まぁ、それでも、そんな道徳的な人格を獲得できればいいなぁ、と思う事はたまにはある。他人の幸福を見て自分の心が苦しい時にはそう思う。


結局は、自分が楽になりたいから道徳的な人格を獲得したいと願っているのである。そんな自己中心的な人間が道徳的な人格を獲得する事はまず不可能だろう。

善人でも悪人でも、結局は他人を通して苦しむ


自分より幸福な人間を妬んで心を苦しめる。

自分より不幸な人間を蔑んで心を安堵させる。


どちらも望ましいものではない。だが思う。


自分より幸福な人間を賛美して心を快適にする。

自分より不幸な人間を嘆いて心を苦しめる。


両者の違いはなんだろうか?と思う。


前者の自己中心的な人格にしろ、後者の道徳的な人格にしろ、どの道、人は他人の人生を観察して心を痛めるのである。


私は善人ではないので、どうして他人の不幸に心を痛める事ができるのかわからないが、善人でも多大に苦しむ事はわかる。


他人のために心を苦しめるのが善人であり、自分のために心を苦しめるのが悪人なのかもしれない。あくまで学校の道徳的な授業を背景にした考えだが。

打算的な道徳が葛藤を解消する


まぁ、なんであれわかった事は、結局の所、人は他人を通して苦しむのである。その苦しみから逃れたいのならば、他人に対して完全に無関心になるか、他人との関係を一切断絶するしかないだろう。



そして、善人であれ悪人であれ、他人の事を考えるのならば結局は苦しむのである。



ならば、他人を思いやる事で苦しんだ方がまだマシなのではないだろうか?


他人の不幸を喜んでいる様子を他人に見せつけても、他人は私に好感なんて得ないだろう。

だが、他人の不幸を嘆いている様子を他人に見せつけたならば、他人は私に少しばかりの好感を得るかもしれない。



至極、打算的な思考である。


だが、そんな打算的な思考だとしても、損をする人間は減るのではないだろうか?他人の不幸を喜ぶよりかは減るのではないだろうか?自分の事を嘆いてくれる人間が一人増えるのだから、悪い事ではないのだろう。


なるほど、道徳的な考えである「他人の幸福を喜び、他人の不幸を嘆きなさい」ってのにも、けっこうな効能があるらしい。少なくてもその逆を行うよりかは快適な日々が過ごせるだろう。



どの道苦しむのである。


それでも、ほんの少しでもお得な方がを選んだ方が良いだろう。


あなたがもし善人であるならば、「他人の幸福を喜んで他人の不幸を嘆く人格」をそのまま磨き上げれば良い。

あなたがもし悪人であるならば、「他人の幸福を喜んで他人の不幸を嘆く人格」の方が今よりも自己中心的であるあなたの生活を幸福にするだろう。