不完全という解釈の仕方を改める事が不完全を克服する唯一の方法である。

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不完全さと前向き

不完全を受け入れる

不完全を愛する

不完全こそ美しい



完全でない物に人は強い興味を抱くようで、最近の私も不完全を生成してしまった事で、どうしてもそれを完全にしたいと渇望したり諦めようと葛藤したりしている。



きっと今の私が気にしている不完全を完全な形へと完成させる事に成功したのならば、その対象への興味は一瞬にして削がれてしまう事だろう。


続きがあるから気になるし、欠落している部分があるから埋めたくなる。そういう意味では不完全というのは完全よりも前向きな言葉なのだろう。

不完全さと慣れ

完璧を愛する人からすると、不完全である状態を凝視するのは気分が悪い事だろう。今の私も納得いかない気分で悶々としている。そこまで重要な事でもなんでもないのだから、さっさと残り少なくなった休日を満喫すればいいのだが、どうにもそれが難しい。「あるもの」よりも「ないもの」に向かって猪突猛進してしまう間抜けな性格をどうにかできないものだろうか。


まぁ、それでも初期の精神状態よりかは幾分か快適さを取り戻している。


なぜならば、不完全であると解釈した私の脳みそが「今の状態こそがあるべき姿だ」と解釈し始めているからだ。要するに慣れてきたって奴である。


きっと何回もその対象に対して向き合う回数が増える度に、慣れの度合いが増してくるから「不完全さ」が段々と薄れていって、完全ではないにせよ、受け入れられる何かに昇華させる事だろう。

完全とは何か


完全とは何だろうか?


それを定義するために辞書の言葉をそのまま取り出してくるのは間違っている。


一切の欠ける事のないもの。それは何を持って欠けていないと考えられるのだろうか?パズルのピースではないのである。



一つの何かに対して、必要な要素というのは実は完全に定義されている訳ではない。


人間とは何か?何を持って人間と定義するのか?それは脳死の是非が世間で討論されてきた歴史から考えてみても定義するのは難しい。


何を持って人間を死んだと定義するかが曖昧である。という事は人間の定義もまた曖昧であるのだ。



また、肉体としての人間が消滅したとしても、歴史上の人物として、世界的なスターとしてその名を残して、いつまでも思い出せれて愛されているのならば、その人は生きているという解釈もある。


完全に対する定義がそもそも曖昧なのである。完全とは言葉だけの存在なのかもしれない。


不完全を克服するためには、過去の自分を改める必要がある

そんなこんなを踏まえた上で、私達はどうして不完全さを感じるのか?ってのは不思議な話である。


それはきっと、不完全というちょっと高尚な表現をしてしまっているだけで、「慣れきっていない」「表現する言葉が見当たらない」「良い解釈が見当たらない」っていう簡単な理由から発生する言葉なんじゃないと、私は思う。




今の現象が、今までの私が目にしてきた現象とはまるで違う。


今までの私の体験の他にも、違う解釈があるのだな、と思う時それを新鮮と呼ぶ。

今までの私の体験こそが絶対に正しいと思っている時、人はそれを不完全と呼ぶ。



要は、自分が持つ既存概念こそが絶対だと信じてやまない時にこそ、不完全という言葉を使いたがるのである。



よって、不完全を克服する方法は単純で、「今私が不完全だと思っているそれは、実は別の解釈があって不完全でも何でもないんだ」と考えを改める事である。


不完全だと思えた何かにも、素晴らしい解釈があるのだと発見する事で不完全を克服できる。


とは言っても、それは簡単な話ではない。


「あるがままを見つめて、そこに存在する素晴らしさを発見する」という行為こそが不完全を克服するのだが、それが簡単ではないのは簡単に想像が付くことだろう。



でも、もしそういう思考を身に着けて「不完全な物など何もない」と考える事ができるようになったのならば、その人の精神は完全であると言えるのかもしれない。