イロトカタ

純然たるイロトカタです


日々を生きる人間としての、日々何かを奪って生きている人間としての、せめてもの礼儀。


生きられなければ夢はない。金がなければ命はない。だが金だけの人生だけなんて死んでいるのと同じだ。



泥の沼から足を引っ張られようとも、泥の上での新鮮な空気だけを吸い込みたいともがき喘ぐ。時折、足を掴む力が鈍り、泥の上へと口を出し、夢が凝縮された世界へと顔を出す。その風景を見ながら、ずっとそこに居たいと強く望みつつも、足を引っ張る力は強くなる。


泥の上、泥の中、泥の底。夢と現実を間を何度も行き来きしながら、いつかは泥の中から完全に脱出しようともがく。




自分は今、どこにいるのだろうか?泥の中か?泥の中でも一生を生きられるだけの体になりきってしまったのか?


それとも、もう泥の中は出たのか?ならば泥の中を出たのに、依然として泥の中にいるような心地は何なのだ?

ここは泥の中ではなく、泥の上だ。にも関わらず苦しいというのならば、よりよい世界があるのだろうか?

ならば私はそこへ向かってもがき苦しみ喘いででも、そこへ向かっていくのが正しいのだろうか?


今の私は泥の中の人間を笑えるのだろうか?



どこが最高の環境で、どこが終着点なのか。どこへたどり着けば私の人生は終了してもいいと心の底から思えるのだろうか?


短期的な終了地点が決まっている事は多いにも関わらず、人生の終着点を自分で定義しないとは何事か。だから私は一生よりより場所を求めて一生を苦しみ喘ぎ死んでいくのではないか?


隣の芝生を見て、隣を妬み焼き払い、似たような芝生を作り不満足に終わる。


今この場所こそが靑山ではないのだろうか?そう思った事はないだろうか?いや、きっとないのだろう。数年前は今のような生活を求め努力し苦しんでいた、今の私は数年後の輝かしい未来を求めて喘ぎもがいている。



今いる靑山を打ち崩し、新たな靑山を求めながら「幸せになりたい」と望む。



本当に幸せになりたいのだろうか?本当は何をしたいのだろうか?


結果だけ。本当に結果だけを見れば、日々を重労働に身をやつし、毎日を「手に入れたい日々を望む」という手に入れられていない精神状態を維持し、明るい明日へ向かって汗だくになって走り続ける。




今、今、今。



今以上に大切な時間などないと理屈ではわかりきっている事にも関わらずに、未来の価値を大切にする。


成長、成長、成長。比較、比較、比較。


劣等感に妬み恨み、切磋琢磨で奪って殺して不満足。


何億もの微生物を踏みつけ、数え切れないほどの動物を殺し回って、何億もの人間より豊かな生活を送り、「もっと幸せになりたい」




自分の身勝手な幸福のために殺戮を重ねた結果のセリフがこれだ。挙句の果てには「自分には生きている価値がない」



生きてるだけで殺すのである。殺すだけ殺しておいて不幸を嘆いて自分を殺すのでは何のための命か。殺した命が無駄死にだ。



死にたいと思うのならば、他の生き物は殺すな。


せめてできる限り何も殺さないように餓死して死んだらいい。




それができないのならば、せめて自分が殺した何千何万もの命のためにも「自分は幸せ」なのだと言ってやらなければ、殺した命が浮かばれない。


それだけの微生物や動物や人間の命を犠牲にしておいて、ヒステリックにもがき苦しみ喘ぐ権利なんてないのではないか。



自分の人生を肯定しろ、必死で幸せをかき集めろ、大いに笑い楽しめ。


それが、毎日何の感情もなく、踏みつけている微生物への、叩き殺している動物への、踏み台にしている人間への、せめてもの礼儀ではないだろうか。