いつか明日は来なくなる、だから平穏な日々を大切にする、でもいつか退屈から逃げるように動き出す

影を消したら別の影

どうにも慣れているものには価値を感じなくなるものである。


日常の一つ一つが物凄く価値の高い大切なものだとわかっていても、希少性がないという理由だけで、脳みそが知り尽くしているという理由だけで、私は毎日を無駄に浪費してしまう事がある。


しかしながら、まぁ終わるのである。


明日の幸せのためにと、せっせと今日を貯金しても、別に寿命が急激に伸びて永遠に生きていられるようになる訳でもない。


今日を無為に使おうが、今日を明日のためのに貯金しようが、今日そのものを存分に楽しもうが、いつか明日は来なくなるのである。



そんな誰にでも来る絶対的な事実に対して、幸福を感じる者もいれば、絶望する者もいれば、それに抗おうとする者もいる。


今日一日の使い方は人それぞれなので、まぁそれも別にどうでもいい事なのではあるが、100年後には今生きている人間はみんな死んでしまうというのは、なんとも儚い気持ちになってしまう。



つっても、これから科学が大発展して不老不死が成就される可能性もなきにしもあらずなのだから、それはそれで「永遠に生きる苦痛」みたいな新たな問題も発生するのだろう。困ったものである。

小さな幸せに飽きる時

人間ってのは「幸せ」になりたい!って言って誰も命令している訳でもないのに毎日を懸命に生きる。



なんだか、「幸せになりたい!」ってセリフを聞くと、その人がまるで幸せではないみたいな、そんな印象を受けるが別段そんなことはない。


「もっと幸せになりたい!」ってだけの話である。極論だが、「生きているだけで幸せ」であると言えばそうなのだろうから。


言ってしまえば、今この時点でみんな幸せなのである。まぁ極論だな、こんなのは平和ボケした日本人だからこそ言えるセリフだろう。



で、「もっと幸せになりたい!」って願望は、つまりは慣れきって飽々している結果なのだろう。言うなれば「今の幸せに飽きた」と。


だからもっと大きな幸せで私の飽々した気持ちを吹き飛ばしてくれ!とそんな潜在意識があってこその、挑戦努力精進なのではないだろうか?

幸福を求めているのではない、退屈から逃れているのだ

と考えるならば、人が一番嫌うのは「退屈」なのではないだろうか?嫌うのは不幸でもなくて、少ない幸せでもなくて、単純に「慣れと飽き」から発生する退屈の方が人にとっては嫌悪するものではないだろうか?


安定した職業に就いている者が、大金を手にした者が、幸せな環境に身をやつしている者が、また新たなステージに進んでいき苦悩したり失敗したり挫折するのは、あれはあれで望みどおりの人生だったりするんじゃないだろうか?


そらまぁ、表面上の考えとしては「もっと成功したい!幸せになりたい!だから努力だ挑戦だ!」って気分なのだろうが、その実、「ただ単に退屈だった、もっと面白そうな事に対して突き進みたい!」ぐらいの願望なのかもしれない。


その人にとっての「面白そうな事」ってのは金儲けとか社会的地位名誉を得る事、という事なのだろう。



私は何かになりたいと思う、何かを手にしたいと思う。


だが、その裏にある真意は「面白可笑しく世の中を生きたい」って願望でしかないのだろう。



お金も恋愛も地位も名誉も結構だけれど、退屈ならばそれは無意味で、楽しさこそが真価である。