イロトカタ

純然たるイロトカタです


主体性がないんじゃなくて、自分がないのかもしれない。

主体性とか、能動的とか。そういう要素が成功の条件だと言う。

自分で事業を起こせない人間が成功する道理もなければ、自分から行動できない人間に何かが起こる道理もない。


有り体に言えば、成功の条件というよりかは、出来事の発生条件くらいなものなのだろう。

大量の出来事を発生させられる人は、その分だけ、その中に成功が入っている可能性が増える、というくらいの事なのかもしれない。


つまりは玉石混交。失敗も清濁併せ呑む覚悟がなければ、成功は手に入らないのかもしれない。



そんな中で、「俺は一生何もしないで遊んで暮らしたい!だから成功して金持ちになりたい!」っていう欲望が実現し得るのかなぁ、とふと思ったりする。


この願望は一見能動的であり、主体性があるように見えるのだが、しかしながら最終的な目的は「何もしない」ことになるのだから、その人の中には結局の所なんにもないのである。

中身のない人間に主体性があると言えるのだろうか?難しいのではないだろうか?



中身がないと主体性があるとは言い難い。つまりは「自分という存在と意志と目的」が外向きである事が主体性の条件なのではないだろうか?


ただ漠然と「何もしたくねぇから金が欲しい、成功したい」ではそこに自分はない。何もしない自分を目指す人間には何もない。当然と言えば当然。


ならば確かな主体性を得るためには「確固たる自分」という物を確立しなければいけないのではないだろうか?


「何もしなくねぇから、成功したい」というのは、矛盾しているのである。内向きのために外向きになろうとしている。これでは一貫性もなければ主体性も半減されるのは妥当だろう。


まずは「確固たる自分の確立」の方が重要で。そのためには「何もしなくねぇ」と思うのならば、「徹底的に何もしない」方が重要なのである。


自分は本当に何を求めているのか、そのために徹底的に自分をその願望に連動させられているか?それこそが人間的魅力であり主体性である一貫性なのである。



だから「何もしなくねぇ」と思いながらも仕方なく働かなければならないというのならば「徹底的に何もしないで済む」ように労働を行うのが信念というものだろう。



「できるだけ何もしねぇ!」という思考が行動を伴い一貫性を発生させた時に、始めてその人に主体性が宿る。


言ってしまえば「己の欲望理想に忠実になれるか?」という点にこそ、一個の人間の価値があるのではないかと思うのだ。


ただ仕方なく。

そんな理由で人は全力を出せない。

ならば欲望のために、欲望の赴くままに行動(その中に何もしないが含まれていてもいい)を実践していける人間は、どんな境遇に置かれてもそこそこ人生を楽しめるのではないだろうか。


やりたい事をして生きるために、そのために皆生きているはずである。