イロトカタ

純然たるイロトカタです


「人間らしさ」と「合理性」の領分について

複数の未来は比較できない

何をもって最適だと判断するのか?って話。

複数の未来を比較する事が現実的に難しい限り、合理的に一番正しい判断というのは妄想になってしまう。

しかしながらも、過去のデータから判断して「これが一番正しいと思われるよね!」っていう感じで、良いと思われる判断を取っていく。

タイムマシンを複数稼働しない限りは、「おそらく、そうであろう」という曖昧な状態で正しさを決定しなければいけないのである。


だからと言って「未来は誰にもわからないのだから」という投げやりな心理状態で歩を進めるのも如何なものかと思う。


「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とい言葉はあるが、未来の不確定性を盾にして経験にも歴史にも学ばない者は人間じゃあないと仮定したい。



そんな仮定を元に、「私にとって一番合理的な判断」というのを決定するためには、どうすればいいのだろうか?


経験が絶対だろうか?それとも何千年前の歴史が絶対だろうか?はたまた別のロジックで導き出される何かが絶対だろうか?


未来を比較できない限り、やはりそこに正解はない。


正解がないが故に、色々な解釈や合理性があって、多様性が生まれるのだろう。

合理性を追求すると人間らしさが減少する

人間にも様々な種類の性格や肉体の人間がいて、それは多様性と呼ばれ。生き残れない者は淘汰されてきた。


結果だけを冷徹に判断するならば「生き残った者が正しく、淘汰されたものは間違っていた」という結論を導くしか無い。

さらに言うならば、生き残った者は合理的であったと、そういうしかないだろう。


その時の人間の心情や経験なんてどうでも良く。単に「より豊かで、より生存できたか?」という観点でしか合理性は測れない。


合理性とは「ある特定の目的をどれだけ達成できるかの度合い」であると考えるので、目的達成度以外の要素は無視する以外ない。


それ以外の要素は無視する。つまりは特定の目的を達成する以外の事は無視する。


当人の感情も、信念も、事情も、それに関係する人間の幸福も。無視する事になるだろう。


言ってしまえば、より良い合理性を求めるという事は「人間の人間らしさを徹底的に排除する」という事になってしまう。


ならば何のための人生だろうか?人間らしくない人間の人生なんて意味があるのだろうか?

道具には領分がある


合理性を徹底的に追求する事で、人間にとって大切な人間らしさを排除してしまう事になるだろう。


とは言っても、合理性を追求する事で得られる幸福もある。

「人間らしさ」と「合理性」のどっちをどれだけ選択するか?という苦しい判断をまた課せられる訳だ。

その判断を行う時に使用する道具はなんだろうか?「人間らしさ」だろうか?「合理性」だろうか?


そうやって人は悩み時間を浪費するのであるが、さて、それをどうやって解決するか。


そうなると「領分」という新しい要素を持ち出すしかないだろう。


つまりは、各ジャンルによって「人間らしさ」を使用するか、「合理性」を使用するか、という切り分けをしておこうという事だ。


その切り分けができていないからこそ、どの道具を使用して解決していいかわからないからこそ、人は悩むのである。


分野によって適切な道具が存在するように、分野によって適切な思考法もある。


全てを同じ方法で解決しようとするのはナンセンスである。


だからこそ、人間らしさと合理性の両方を大切に持っておくべきだと思う。